残夢でしか会えぬ君へ 1


茫洋と宙を漂っているかのような不安定で断片的な記憶の奥には、笑顔の彼がいた。
彼はいつも目尻と鼻の辺りにきゅうと皺を寄せて、愛らしく笑う。

その日は風が少し強くて、彼の艶やかな黒い髪が乱れていた。天気が悪いせいでその髪に光が当たらず、やけに黒さが目に付いた。景色の中のどこにも彼以外に黒を主張するものがないからだろうか。おれたちの他には、誰もいない。
やがて肌寒くなって雨が降ってきても、砂浜にたった二人きりで、ずっと手を繋いで歩いていた。お互い何も言わないけれど強く繋がれた手は熱くて、おれは思わずぎゅうと目を瞑った。まるで世界に二人だけ置いてきぼりにされたかのように、海が波打つ音のみが耳に届く。辺りを見回せば随分遠くに街の明かりがあって、暗い空の下で煌々と光る街灯が心細そうにおれたちを照らしていた。やがて彼が振り返る。確かめるようにじっとおれを見つめる。どこか寂しそうにも見える、大きな瞳。

「テヒョンア」

大好きな声がおれを呼び、大きな手がするりとおれの頬を撫でた。その手に自分の手を重ねると、雨に濡れて冷えた彼の唇がおれのそれに重なった。雨と波の音の中にある、場違いなリップ音。それだけがおれたちを形づくる僅かな生きている証のようだった。少しずつ大きくなるさざめき。
─ああ、これが。おれたちを祝福してくれるひと達の歓声だったら。拍手だったら。祝福の言葉だったら。何度絶望しただろう。何度も傷ついた。ただ好きになった相手が同性というだけのことなのに、これほどまでに厳しい目を向けられるとは思いもしなかった。おれは彼を愛してる。それすら言うことをはばかれた。何がいけないの?と必死に抵抗しても、そういうものだからとただすげなく返されるだけ。愛に理由なんて要らないよ、とブラウン管の奥で微笑む俳優は嘘つきだった?だめだというなら無かったことにしなければならないの?彼以外の誰かを、愛さなければならないの?まるで口裏を合わせたように皆がみんなおれたちを否定した。叩きつけられる容赦の無い言葉たち。──鋭いナイフで心を突き刺され、土足で大切な気持ちを踏み荒らされて、なぶられて、おれたちは二人して擦り切れてボロボロになってしまった。それでも、おれたちは離れるという選択肢を取ることはなかった。そんなこと、できなかった。
でもたくさん泣いて、考えて、何度も別れようかと言った。好きな人が泣くなら、辛いなら、そうしなければならないと思ったから。でも彼はそれじゃあ死ぬことと同じだよ、と言った。

あなたがいない世界で生きるくらいなら。……あなたと死んだ方が幸せだ。そうしたら、永遠に一緒にいられるでしょう。

泣き濡れた瞳で彼がそう言ったとき、そうだね、とおれは頷いたのだった。絶望の底にいるのに、そこに彼がいるだけで幸せだった。彼がいるなら絶望も幸せになった。
彼は世界の何もかもよりも、おれを選んでくれるのだ。
ふわりと微笑む彼に仄暗い喜びを感じながら、目を閉じる。

─俺は、あなたしかいらない。あなたしか望むものはないよ。

はっきりと言い切った彼におれは擽ったい気持ちで笑って、おれもだよ、とその愛らしい唇にキスをした。彼から本当に好きな人とするキスを教えてもらった。何度しても、顔が火照る。目を瞑って感じる顔を見られるのが恥ずかしい。でも彼だからいい。愛しているってことはその積み重ねだ。こんなの、彼以外に考えられないよ。そう分かりきっているからこそ、それを否定されるというのは事実として、絶望となり形を変え大きな闇となって二人を呑み込んだのだった。

身を焼くような、それでいて冷えきった絶望の中にある火花のような衝動と、甘美な毒が全体を侵食していく感覚。もう戻ることはない。おれたちはずっと一緒だ。冷たい海に足を踏み入れる。更にきつく手を繋いだ。裸足になって石が肌を刺しても、潮風が目に染みても、もう関係なかった。どんどん海水が侵食していくにつれて手の力を強めて、それからどちらからともなく身を寄せて抱き合った。

愛している。何よりも、誰よりも。だから、誰にも邪魔されないために、永遠に二人でいるために、いっそ死んでしまえばいいのだ。この世界は苦しいだけだった。俺たちが望んだ幸せなんてなかった。誰も祝福なんてしてくれなかった。それなら、誰にも認められないというのなら。誰もが認めないであろう形で、二人の愛を証明しよう。

二人で向かい合い、おでこをこつんと合わせた。じわりと伝わるお互いの体温。こうするのももう、最後になる。それだけが、この世に対する未練だった。

「もしまたこの世に生まれちゃったらどうしようか」
「またあなたを見つけるよ」
「今度は見た目も国籍も性別も何もかも違うかもよ」
「そうだったとしても、きっと俺にはわかっちゃうよ。あなたのことなら」

ふ、と低く笑うジョングクに、泣きそうになりながら目を閉じた。

「じゃあ、おまえがおれを見つけてよ」
「うん。約束する」

そう言いながら、ジョングクの熱い舌がおれの涙を舐めとった。

「きっと、俺は何度でもあなたに恋をするよ」

緩く回されたジョングクの腕の中で、おれは声もなく泣いた。


氷のように冷えきった海水の中に身を沈めると、体が思わずふるりと震えた。それを彼が感じ取って、一層強く掻き抱かれる。おれは決して離れないように彼の唇を食んだ。海の中にいるのだから泣いているかどうかも分からなくなったけれど、それでもぼやけた視界の中にいる彼は、ずっと泣きながら微笑んでいるようだった。水は彼の声も奪っていった。ああ、彼の声が大好きだったのに。それが堪らなく惜しかった。彼の歌が好きだった。甘くおれを呼ぶ声が好きだった。愛していると情熱的に愛を囁く声が、大好きだった。
きっと彼がおれを好きにならなければ、沢山の人に愛されたはずだ。
それでも彼を返してあげることは、おれにはできない。
海の奥底に呑まれながら、彼を抱き締め続けた。


おれだって、何度でもおまえに恋をするよ。

でもね。おまえを死なせてしまうおれには、幸せになる資格なんてないんだ。だから、もしまたこの世に生まれ落ちたとしても、おまえはおれのことなんて思い出しちゃだめだよ。おまえは次こそは絶対に幸せにならなきゃ。
神様にお願いしておこう。

意思が強くて、なんでもできるのにどこか不器用で、ちょっと我儘で。そして底抜けに優しくて愛らしいおまえが、幸せになれるように──……

彼の唇のやわらかな温もりと逞しい腕に抱き締められる感覚が、どんどん闇に呑まれていく。どちらが先に気を失ったかは分からない。揺蕩って、深い闇に包まれて、そのまま。恋心と脆い身体を海の底へ葬って、おれたちはひとつになった。








ふと目を開けると、カーテンが風に靡いてめくれ上がるものだから、目に直接陽の光が入り込んでしまった。チカチカと瞼の裏に焼き付いた光と、つい先程まで見ていた夢が痛みとなって頭に残る。
とても悲しい夢だった。ふと手を目元にやると涙で濡れている。

「あたま、いた……」

──何度も何度も見る夢。それはおれの昔の記憶だ。おれが生まれる前、もっと昔。同性同士の恋愛に今よりもっと理解がなかった時代。おれと夢の中の愛らしい笑顔の彼は恋に落ちたけれど、一緒にいることを許されなかった。だからふたりで駆け落ちでもするように逃げて、心中した。
その記憶を引きずっているということは、きっと神様がおれに「忘れるな」と言っているのだろう。愛おしいひとを死なせてしまった罪。だからおれは、誰も愛さない。ひとりでいい。
本当は寂しくて堪らなくて、何をするにも視界が滲む。おれは強くなんてないから、そうして死んでいるみたいに生きている。

水を飲んで一息つくと、顔を洗って歯磨きをする。面倒くさいから朝ごはんは後で、休憩時間に摂ることにする。スーツを着て鞄の中に財布やスマホや入館証が入っていることを確認して、腕時計を着けて家を出る。玄関先で振り返ってみても、当たり前だが誰もいない。がらんとしていて寂しい部屋だ。部屋の中には必要最低限のものしか置いていない。この寂れた家には、誰も呼んだことはなかった。
特に理由はないのだけれど、何となく、誰も入れたくないと思ってしまうのだ。
なんとはなしに部屋を見回した時、誰も部屋に呼ばないくせに買ってしまった二つのマグカップが目に入った。そうやって、無意識にふたつずつ買ってしまうことがたまにある。まるで誰かを待つかのように、一人分のスペースを開けるように。なんせ無意識なので気づいたら買ってしまっているのだけれど、ついぞそれらが出番を迎えることはなかった。きっとこれから先もない。
自分で自分に心底呆れる。まだおれは心のどこかで彼を──ジョングクを、待っているのだ。未練がましくて嫌になる。

革靴をもぞもぞと履きながら、未だに重い頭に溜息をついた。頭痛薬は確か切らしてしまっている。途中でドラッグストアに寄らないと、と通勤時間を計算しながら家を出た。

そもそも出勤時間が早すぎてドラッグストアは開いていなかった。
早足になりながら、仕方なく電車に乗り込む。頭の痛みは通勤中に無くなることはなく尾を引いて、不快な鈍痛に思わず顔を歪めた。貧血のようにぐらぐらと頭と体の芯が揺れて、気分が悪い。目を細めながら何とか電車の行先を確認する。満員電車だから座ることもできず、吊革に縋るようにして俯いた。ぐわん、と湾曲する雑音と頭の痛みがじくじくとおれを蝕んでいく。

「あの、大丈夫ですか」

不意に隣から小さく掛けられた声にゆっくりと顔を上げると、ぼやけた視界の中で若そうな男性がおれの顔を覗き込んでいた。おれは最早受け答えをする元気もなくて、緩く首を横に振った。その男の人がジョングクに似た雰囲気だったから、尚更頭がぐらぐらした。耳鳴りなのか電車のアナウンスなのか最早判別がつかない中で、その男性はさり気なく、しかし有無を言わさぬ力でおれの腕を取って、「すみません、通してください」と周囲に声を掛けながら丁度停車した駅で降りた。
ベンチまで手を引かれて、情けなく座り込んだ。その男の人が「飲めますか?」とおれにペットボトルを差し出してくれて、その優しさに申し訳なくなった。

「すみま、…せ…」
「本当に大丈夫ですか?吐きそうならトイレに行くか、最悪袋持ってますけど」
「……ん、いや……頭、痛いだけだから……」
「俺、頭痛薬なら持ってますよ。もし持病じゃなくて市販薬で済みそうならあげます」
「……もらっていい……?」
「はい」

がさごそと荷物を漁る彼の革靴だけをぼんやりと眺めた。真っ黒の革靴。大きくて、長い脚。似ている、なあ。

「じょんぐ、く……」

思わずこぼれた名前に、目の前の彼がぴくりと反応した。

「え?どうして俺の名前……」
「っ、え……?」

思わず顔を上げた。困惑気味におれを見つめる、彼の顔。

「じょんぐく……?」
「それは俺の名前ですけど……あれ、俺たちどこかで会ったことありましたっけ」

ぐらぐら頭が揺れる。脳裏に過ぎる波の音。息を奪われそうになる。それはあの海の感覚からか、目の前の彼のせいなのか。どうして、どうして、

「あの、大丈夫ですか?」
「っ、ち、ちが、なんでも、ない……っ」

嗚呼、そこにいたのは紛れもなくジョングクその人だった。だけどおれを覚えていないのか、おれの顔を見ても何も言わないし、おれが名前を呼んでも夢の中の彼のように反応することはない。なんて、残酷な罰なんだろう。

「ごめ、なさい。もう、大丈夫だから」
「そんなはずないでしょう、待ってください」

慌てて立ち上がる。頭が割れるように痛いけれど、とてもここに留まっていられそうになかった。だから彼に背を向けようとしたのに、彼ときたらおれの腕を掴むのだ。腕に触れた感覚も力加減すらも全てが彼そのままだったから、動揺のあまり涙が出た。

「っ触らないで!」

思わずそう叫んでしまっていた。はあ、はあ、と自分の荒い息遣いが耳障りだ。払いのけられた手を彼は驚いたように見つめて、それからおれを見る。真ん丸なその目、やめて、おれを知らない目で見ないで。

「……駅員さん、呼んできますから。座っていてください」

それなのに彼は怒るでもなく、具合の悪いおれを放っておけないのか、駅員さんを呼びに行ってしまった。
倒れ込みそうになりながら椅子に手をつく。周囲の人間が困惑気味におれを見ていても構っていられるはずがなかった。

「……ふ、っう、…ぅぅ、っく…」

馬鹿みたいに涙が出た。それを止める術なんて知らない。
分かってるよ、これがおれへの罰なんだって。でもつらいよ。いつもおれが泣いてたらすぐ駆けつけてくれて、涙を人さし指で拭ってくれて、大丈夫だよって言ってくれたでしょう。抱き締めてくれたでしょう。顔も身体も声も全部そのままなのに、おれのことはもう、覚えてないの。


駅員さんが来てしまう前に、おれは今度こそ立ち上がって駅を出た。降りたことの無い駅だったけれど、そんなことはどうでもよかった。スマホを取り出して会社に一方的に体調が優れないから休むとメールをして、電源を切った。

少し離れたところにあった公園のベンチに座っていれば、取り乱して最高潮になっていた頭の痛みと動揺から来る吐き気が少しずつ落ち着いてきた。

「……、」

──ジョングク、スーツ着てたな。どこかのサラリーマンをしているのだろうか。あの時より少し顔が逞しくなっていた気がする。すごくかっこよかった。きっと女の子は放っておかないだろう。

それでいい。まかり間違っておれと出会って思い出したりなんかしたら、また苦しむことになってしまう。もしかしたら彼はおれと心中したことを悔やんでいるかもしれないし、おれのことを憎んでいるかもしれない。もしそうなら、許してくれなくていい。もし今思い出してしまっても、おれを愛していたときのことなんてなかったことにして。そして、幸せになってほしい。今度はおれじゃない、女の人と。堂々と世間に認められる、法的に家族になれる、外に出て人目を気にしてデートをしなくていい、手放しに祝福されるようなひとと。

おれはもうおまえに手を伸ばすことを許されていない。だから気持ちだけ。おまえのことをまだ好きでいることだけは、許してね。

──あのジョングクは、もうおれの知るジョングクとは全く違うひとなのかもしれないけど。

ふらりと立ち上がる。罰を受け入れなければならない。全て自分で選んだことだ。目を瞑って、まだ溢れる涙を乱暴に拭った。

おれの涙を受け止めてくれるひとはもういないのだから。






「ちょっとテヒョンア、大丈夫なの!?」

翌日出社すると、同じ部署で隣のデスクのジミンが心配そうな顔をして出迎えてくれた。

「うん、もう大丈夫」
「本当に?顔青いし……絶対無理するなよ?少しでも気分悪くなったら言うんだよ!?」

この同僚は少しおれに過保護気味なところがある。それはきっとおれのぼんやりした性格によるところが大きいと思うのだが、ジミンは心優しくて世話焼きでとても頼りになる。大丈夫だよ、ともう一度繰り返すと、ようやくほっとしたような顔をして、おれの手を取ってデスクへ連れていってくれる。わざわざパソコンの電源を付けるところから、初夏だというのにおれのマグカップに白湯を注いだり、ブランケットを膝に掛けてくれたりと甲斐甲斐しくおれの世話を焼いてから、「あったかくしときな」と座らされる。お母さんかよ、と笑いながら、おれは擽ったい気持ちでされるがままになっていた。




ひっきりなしにキーボードを叩く音や電話の呼出音、静かな空気を壊さない程度のほどほどの大きさの話し声がオフィスを満たしている。
外は水分を多く含んだ灰色の重たそうな雲が立ち込めていて、今にも雨が降りそうだ。目の前のパソコンのモニターは明るくて、目に優しくない。人工的な光を浴び続けると老化が加速するって本当だろうか。どうでもいいことを取り留めもなく考えて、ああ疲れてるな、と思った。眉間をぐいぐいと指で揉み解す。
毎日繰り返し同じことをして、特に盛り上がることもなく、特別悲しいこともない。終わりの見えない人生という命の道を、おれはたまに、途方もないもののように感じる。忙しい仕事に追われていれば学生時代の友人とは次第に連絡を取り合わなくなった。おれがいなくても滞りなくみんなの歯車は回り続ける。そんなこと分かっている、当たり前だ。頭では割り切っているふりをするのに、結局ばかなおれは急に立ち止まって、全てを終わらせてしまいたくなる。
写真立てがぱたんと倒れるような、蟻を気付かぬうちに踏み潰してしまうような、昔の大して仲が良かったわけでもない同級生の名前を忘れてしまうような、それくらい取るに足らないことのように、おれも消えてしまいたい。ひとりくらいいなくたって、いいんじゃないか。何の支障もないだろうなんて、ネガティブなことばかり考えてしまう。

もうひとつ、どうしても頭を重たくするのは駅で出会ったジョングクのことだ。彼が今この世に存在しているとわからなかったから、ひとりで生きていこうと決意できたのに。あのひとは顔が同じだけで記憶はないんだからジョングクではないとどんなに割り切ろうとしても、胸が張り裂けそうに痛む。どうしても、彼が恋しくて。

だから、毎日のように見る夢の中のおれが羨ましかった。ジョングクに愛される自分が。ねえ、おれのことも連れて行って。そう言いかけて、自嘲する。馬鹿みたいだ。

無意識のうちについた溜息を耳聰く拾ったジミンが、優しく「疲れたんなら休憩しなよ」と言う。時計を見ればもうそろそろ昼の休憩時間だったけれど、少し迷って、「もう少し作業してから休憩に行くよ」と返事をした。

やがてジミンが休憩に席を立ってから、ふと周囲を見回せば殆どの人がデスクから離れて食事をしに行っていた。まばらなオフィスの中で、おれは堪らずデスクに突っ伏した。

─もう、あの彼と会うことはない。いつも乗る電車の時間も車両も変えた。それにもし万が一彼がおれを見ても、彼はおれを怪訝そうに見るだけだったから、あちらから声を掛けてくることはないだろう。
またじわりと痛む頭と滲んだ涙に知らぬ振りをして、おれは休憩を取ることなくモニターに向き合った。





色褪せたような彩度の低い景色はいつもの夢と同じだ。互いの手を頑なに離さず、黙々と歩く。頻りにさざめいている海は荒れ気味で、呑み込まれればすぐさま海底へ引きずり込まれてしまうと本能的にわかるくらいに、広くて深い闇だった。次第に砂を蹴る足は疲れていって、鉛のように重くなる。それでも歩みは止めず、ひたすらに世界の全てから逃げるように光から背を向け続けた。

おれたちを否定する世界なんていらない。

悲しくて悲しくて、おれは思わずそう言った。

俺の世界にはあなたがいればそれでいい。

すると隣の彼はおれだけを見つめて、そう呟いた。彼の目には、おれだけしか映らない。それと同じように、おれの目にも彼だけを映す。もう何もいらなかった。彼の他には。全て捨てた。無駄だった、何もかも。泣きそうに歪む目と鼻に寄る彼の愛らしい皺を見つめていたら、もうどうでもよくなってしまった。彼を傷つけるというのなら、おれは許しはしない。普段滅多に感情を剥き出しにしないおれに、みんな驚いていたな。でももう、それきりだ。もうおれの感情は、彼だけのものだから。






家を出る前から既に雨が強く窓ガラスを叩きつけていた。
スーツの裾に泥が撥ねて汚れるのは嫌だけれど、雨という天気自体は嫌いじゃない。透明のビニール傘にばたばたと水滴が跳ね、ひっきりなしに水玉が生まれては落ち、スーツや鞄を濡らす。耳に突っ込んだイヤホンから流れるバラードに聞き入りながら、おれは無心で歩いた。
─迷った少年。逃げるんだ、全ての現実から。
英語で紡がれる寂しげな歌詞と静かなピアノ。グレーの空とアスファルトを延々と濡らし続ける雨によく似合っていて、無性に泣きたくなる。もう少年なんていう年齢じゃないのにな。


どこにいても虚しくて、いつも一人取り残されているような感覚があった。隣には決まって彼がいたのに、その気配を辿るようにして手を伸ばしても、誰もいない。それなのに、夢にはいつもおれの手を引いて歩いてくれる彼がいる。それがとてつもなく幸せなのに、悲しくて苦しいのだ。暗い喜びに埋もれた絶望が顔を出す前に、逃避するように海に逃げる。身を投げた瞬間に口の中に海水が入り込んで、全てが塞がれていく。それでも夢の中のおれは一人ではない。冷たい海水に呑まれても、おれを抱き締める腕の力が緩むことはなかった。

夢から醒めて涙をこぼすことは、最早日課のようになっていた。頭が痛い。悲しい。愛しい。おいていかないでと言うのを堪えて、幸せになって、と唇を噛み締める。夢の中の自分の感情に囚われながら、ずっと泣いていた。
考えれば考えるほどずきずきと頭が痛み、ベッドの中で蹲る。
苦しむのはおれだけでいい。
きっと優しいジョングクは、おれと同じ立場になったら苦しんでいただろう。それなら、こうして泣くのがおれだけで良かったと思える。
今度こそ、あの子には幸せになってほしいんだから。






マグカップをなぞる。それはまだ熱くて、猫舌のおれはまだ中身を飲めずじまいだ。それを見ながら苦笑したジミンが、これ見よがしに熱いコーヒーを飲んで、「ああ美味しいな」なんて言うものだから、「じみなぁ」と恨めしげな声が出た。

ジミンに気を遣わせてしまっているのはわかっていた。最近特に夢に引き摺られて暗くなっているおれを、ジミンが仕事帰りにどこか寄ろうと誘ってくれた。そしてあまり体調が芳しくないおれのために、彼は居酒屋ではなくカフェを選んだのだった。元々お酒より甘い飲み物の方が好きなおれは素直に嬉しかった。それから、ホットココアとレジの横にあった小さなかわいらしいテディベアを買ったジミンは、「はい、あげる」と店員から差し出されたトレーをそのままおれに持たせた。

「今日はよく眠れるといいね」

優しく笑ったジミンにまた目頭が熱くなる。彼の気遣いにまたぽろりと涙が出てしまって、乱暴に拭おうとしたらその手を止められる。おれより短くて厚い指がこわれものに触れるかのように涙を拭いとった。

「あーあー、せっかくかわいいの買ってあげたんだから泣かないの。それ枕元にでも置いといてよ。悪夢を追い払ってくれるかもよ」
「…ふ、なあにそれ、バクじゃないんだから」

思わず笑えばジミンが目元を弛める。大好きな同僚。そして親友。ジミンを好きだと思う気持ちはどこまでも安心感を与えるもので、胸を掴まれるような苦しさの中にある愛おしさとはまるで反対だった。時折溶けるような顔でおれの頭を撫でるジミンは慈愛に満ちていて、いい友人を持ったなあ、と思う。おれには勿体ないくらいに。

ジミンと初めて話したときも、情けないことにおれは泣いていた。高校の資料室で、誰もいないと思ってつい涙を落としていたら、何やら取りに来たらしいジミンに見られてしまったのだ。驚いたように細い目を見開いて、クラス違いで顔を合わせたことがある程度のおれに駆け寄ってくれた。

何が悲しくて泣いているのか、彼は聞かなかった。制服のポケットからハンカチを取り出して、遠慮がちに、でも丁寧におれの頬に当てて、次々に落ちる涙を受け止めてくれる。

『悲しくて仕方がないんだね』

ジミンがふわりとおれの髪を撫でた。その手つきは今でも変わらない。

『僕にお前の痛みは分からないけど、助けてほしいって言えよ。呼んでくれたら、僕はお前に手を差し伸べることができる。そうすればこんなところでひとりで隠れて泣かなくて済むだろ』

その時から、ジミンとおれはずっと一緒だ。性格も考えることも何もかも正反対なのに、不思議と波長が合った。大学もその後の進路も、ひと言も相談しなかったのに示し合わせたかのように同じだった。僕たちはソウルメイトなんだよ、とふざけて笑ったジミンのおかげで、いくらか生きるのが楽になった。

ジミンはいつもおれを助けてくれた。この日もそうだ、バケツに溜まった悲しみが溢れる頃、決まってジミンはおれの手を引いて明るいところに連れて行ってくれる。おれは久しぶりに明るい気持ちになってジミンとたくさん話をし、ふわふわとした心地で帰路についた。








溺れていた。

とっくに酸素は口から奪われていて、声も水中では音にすらならない。鈍い感覚の中で抱き締めているのはやはりジョングクで、彼はもう目を閉じて動かなかった。

いやだ、ジョングク。
夢の中で叫ぼうとして、間抜けに気泡だけが生まれては消える。
緩く自身の背中に回されていた腕が徐々に力を失っていく。

お願い、待って。ひとりにしないでよ。
闇に呑まれる。もうその先には何も無いし、自分だってそのうち気を失う。そう分かっているのに、ジョングクがおれを置いていってしまったかのような感覚が辛かった。いやだ、いや、


「…………ッ」

目を開けた時、呼吸ができることに驚いて噎せてしまった。目が醒めることが不思議なくらいに鮮明な夢で、ぜえ、ぜえ、ひゅ、と喉が激しく鳴ることがまだ生きているという感覚を呼び起こした。夢なのに、まるでさっきまで海にいたかのように息を奪われる息苦しさが思い出せてしまう。
パジャマを着ている背中にじっとりと汗をかいていた。
胸元をぎゅうと握りしめていればまた涙が溢れた。
愛しい人が目の前で死んでいくことの残酷さに、本当に遅すぎるくらいになって気づいた。眠るようなジョングクの顔。それが彼の死に顔だなんて。誰がそんな顔させたの?誰のせい?──おれだね、おれのせいで彼は死んだんだ。
もっとおれが大人だったら、心中なんてしなかったのかな。
ああなる前にジョングクの前から姿を消せばよかったのかな。何度も後悔する。でも同じくらい、ジョングクに「あなただけがいればいい」と言われたことが嬉しくて、どうしても手放すことができなかった自分にも共感してしまう。でも雁字搦めになっていく。大切な人を守れないくらいなら、人を愛する資格なんてないんじゃないか?

『俺は、あなたしかいらない。あなたしか望むものはないよ』

真っ直ぐな目のジョングクから手を離すなんて、弱いおれにはできなかったの。

苦しかったけれど、優しくて愛おしい記憶。
もうそうして、夢の中の昔の記憶に意識を揺蕩わせて、目が覚めなくなっちゃえばいいのに。
もうひとりは嫌だ。疲れてしまった。






仕事の途中に抜け出して、おれは紅茶を淹れに給湯室に入った。最近お気に入りの紅茶缶を一緒に持って、そわそわとポットの中のお湯が沸騰するのを待つ。可愛らしくてお洒落な海外の紅茶缶は、頭のいいひとつ上の友人から貰ったものだ。英語が得意な彼はよく海外に仕事に行っていて、こないだ久しぶりに帰国したという彼がお土産にとくれたのだ。こういうの好きだろう、と目を細めて笑う彼は一つしか歳が違わないのにおれの何倍もしっかりしていて、いつも圧倒的な語彙力の中から優しい言葉をくれた。
彼の目にも窶れてみえるらしいおれに、「溜め込むなよ」と彼は言った。どこか思い詰めた顔をしていたのかもしれない。
日に日におれを蝕むあの夢のせいで。まるで呪いのように毎日おれにあの日の光景を見せつける。繰り返し、繰り返し。

─夢から醒めない方法ってある?
そう、あの頭のいい彼に聞いてみれば良かった。

ぼんやりと思考の海に意識を漂わせていると、不意におれの背後に人の気配がした。振り向けばそこにはよく顔を合わせる上司のひとりがいたのだった。割腹のいい身体は狭い給湯室を更に窮屈に感じさせる。おれは目を合わせず「お疲れ様です」と社交辞令を口に乗せてすぐに閉口した。……なんとなく、この人は好きじゃない。目を背けてもわかる、執拗におれを見つめる目に鳥肌が立つ。居心地が悪い。気持ちが、悪い。

「キムくん」

徐に開かれたねちっこい声に、それでも反応するわけにはいかなくてはい、と返事をする。そういえば彼は何も手に持っていない。何をしに来たのだろう。そう思った瞬間に、信じられないほど強い力で腕を握り締められていた。

「っ、え、……」

ねっとりとした視線がおれの全身を舐めるようで、思わず顔を背ける。それなのにやたらと肉厚な手で顎を掴まれて、強制的に顔を上司の方へ向かされる。脂ぎった顔が至近距離にあって、おれは頭が真っ白になった。それから呆然としている間に片手がいつの間にかおれの背中へ回っていた。思わずひ、と声が漏れる。肌が泡立ち膝が笑い始める。男は興奮したように息を荒らげて、おれの尻を乱暴に揉んだ。

「や、めて……くださ、」

震える声を絞り出しても男はしつこく身体をまさぐり続けた。いやだ、と抵抗しても更に興奮したようになって、腰を押し付けてくる。男の肩越しに見える扉は固く閉ざしていて、いよいよ崖から突き落とされたかのように目の前が暗くなる。今は休憩時間でもなく勝手におれが抜け出しただけだから、殆ど人が通ることはない。
ただ狼狽え、動揺しきり、怯えていた。怖いのにどうすることもできない。抵抗の言葉を絞り出しても手を振り払ってもやめてくれない。どうして女性社員もいるのに男のおれにこんなことをするのだろう。別に女性にならしていいということではないけれど、混乱する頭の中ではどうしても、なんでおれなの、と泣き言を吐いてしまう。
男の気持ち悪い手の動きと粘着質な視線の先。歪んだ顔。もしかして、敢えて男を選んだのだろうか。男が男にセクハラされただなんて、恥ずかしくて言い出せない。その上、この男はおれが入社した当時からの上司だから、おれが辛いことを吐き出せない性格だと知っているのだ。
卑怯だ、こんなの。涙で視界が歪む。ひどい、ひどいよ。


「──そこで何をしているんですか」

不意にガチャン、と鉄の重い扉が開いた。もう一生開かないんじゃないかと思ったほどきっちり閉まった扉を易々と開けた誰かが、鋭いナイフのように尖った声でおれたちを咎める。
─見られた。気が遠くなる。こんなの、男同士で何をしているんだよって言われたらおしまいだ。
同じように動揺した男は焦ったように何か支離滅裂なことを叫んだが、ドアを開けた誰かがそれを遮って、有無を言わさずおれたちを引き離した。涙で前が見えなくて、顔がわからない。掴まれていた手が開放されると同時に力が抜けて、おれはへなへなと座り込んでしまった。男が慌ただしく給湯室から逃げるように出ていくと、途端に辺りが静かになる。俯いたおれの視界の中に黒い革靴が入って、心配げな声が「大丈夫ですか」と言った。ああ、彼はおれを咎めていたわけではなかった。そして、どこかで聞いたような声。よく似てる、彼に。顔を上げようとして、ぐわんと急に意識が遠くなった。あ、と思う間もなく瞼が落ちていく。

「あ、ちょっと、テ…ヒョンさ、…テヒョンさんッ!!」

酷く焦燥した声がおれを呼びながら、力を失った身体を受け止めた。それから、暗転。
聴覚だけが気を失うぎりぎりまで声を拾っていた。何度もおれを呼ぶ必死な声を、ずっと聞いていられたらいいのに、と思った。どうせおれの頭が都合よく現実を捻じ曲げてるだけだ。彼がいるはずが無い。もしいたとして、おれの名前を呼ぶはずが無い。




次に目を開けたとき、オフィスの使われていない会議室のソファに寝かせられていた。ぬめった視線や身体を這う手の感覚を鮮明に思い出してぞくりとする。体に掛けられた見覚えのありすぎるブランケットはおれのもので、きっとジミンか誰かが持ってきてくれたのだろう。早く起きなければならないのはわかっているけれど、どうしても立ち上がる気になれずにソファに頬をくっつけた。
─あの時給湯室に入ってきたのは誰なのだろう。声だけ辛うじて思い出せるのに、顔を見ることはできなかった。けれど、姿を見ることが叶わなかった代わりに、男を責める明確に怒りが込められた声と、へたりこんで気絶するおれを呼ぶ焦った声が耳に残っている。それは夢の中で甘くおれを呼ぶ声にも似ている気がする。しかし流石に気のせいだと思い直した。


少ししてから控えめに部屋の扉をノックする音が聞こえて、次いでジミンが顔を覗かせる。目を覚ましたおれに「テヒョンア!良かった!」と言いながら駆け寄ってきた。

「給湯室で気絶したなんて聞いて心臓止まるかと思ったよ!やっぱり具合悪いんでしょ?今日はもう帰った方がいいよ」
「ねえ、おれが倒れたとき、誰か他にいた?」
「うん?ああ、お前をこの部屋に運んでからご丁寧にうちのオフィスまで来て報せに来てくれた人がいたよ。僕も顔知らないから同じフロアじゃないのかも」
「そっか……」
「でも一度見たら忘れないと思うなあ、なんかやたらイケメンだったから」
「そうなの?」
「ガタイも良くてさ。まあお前を運べるくらいだし。名前なんて言ったかな。えーと、あ、チョンジョングク。そうそう、そんな名前だった」
「え、……ジョン……グク……?」
「ん?知り合い?」
「……ちが、う」

あれは彼に似た誰かではなく、彼自身だったというのか。どうしてこのオフィスに、と頭が真っ白になった。同じフロアじゃないにしろ、建物が同じだとすればきっといつか出会ってしまう。そんなの耐えられない。

「……ジミナ、ごめんね。今日は帰るよ」

頭が混乱していて、とても仕事に戻ろうなんて思えなかった。それにおれに突然触ってきた上司も同じフロアであることを考えれば顔なんて合わせられるはずが無くて。ジミンはそっか、と眉を下げながら「荷物持ってきてやるから寝て待ってなよ」と言って、部屋を出ていった。
ぽすん、とまたソファに頭を乗せる。とろとろと断続的にやってくる眠気に抗えない。眠ったらまた、夢の中の彼に会えるだろうか。おれの手を引いて歩く優しい彼に。今のジョングクはおれのことなんて知らないから。おれのことを愛してくれるジョングクに、会いたい。
夢の中で会うことだけ、許してほしい。

おれの名前を呼んでよ、おまえだけの呼び方で。
見つけてほしいなんてわがまま、絶対に言わないから。




給湯室の一件の後、よくおれの名前を呼ぶジョングクの夢を見るようになった。いちごジャムやマーマレードを詰め込んだみたいな甘い声、夢の中のおれはそれは嬉しそうで、幸せそうで。まるで映画でも見ているような気持ちになった。可愛い子。大好きな子。おれのせいで、不幸になってしまった。

「っ、あ、」

ガチャン、と音を立ててマグカップが落ちて割れた。あー、と言葉になり損ねた間延びした声と共に、しゃがみこんで破片を拾う。すると破片で指を切ってしまって、たらりと真っ赤な血が床に落ちた。
─『ああもう、危ないからあなたは下がってて』
愛おしい声が頭の中でそう言った。遠く昔の記憶から辞書でも引くみたいに正確に彼の言った言葉を抜き取って、思い返して。

「ふ、は……」

胸も頭もずきずきと痛んで、また眠りたくなった。最近は更にぼんやりしてしまって、仕事以外ではほとんど眠っている。そうして夢を見る。日に日に夢の中にいる時間が伸びていく。まるで夢の中に引き摺られるかのように。

別にそれでも、良いのに。






「テヒョンアー、おまえに用事があるってよ」

先輩に呼ばれて何の疑いもなく部屋の外へ出ようとした。がちゃん、とドアを開けた先に誰がいるのかなんて予想もしていなかった。まずおれの目に飛び込んできたのは長い足で、顔を上げれば今のジョングクがそこに立っていた。どうして、と頭が真っ白になった時、おれの顔色を伺うように、彼は「体調は大丈夫ですか?」と尋ねてきた。正直それどころじゃないし、きっと今からおれの顔色は悪くなっていく一方だろう。

「…給湯室でのこと。……ショックだったでしょう。俺が偶然あそこを通り掛かったからよかったですけど。あの時、あなたは倒れちゃったし……余計なお世話だと思うだろうし、蒸し返してほしくないのもわかってるんですけど、ただ…あなたのことが、心配で、気になって。駅でも具合悪そうにしてましたよね。まさか働いてるのが同じ建物だったなんて。最近知ったんです、フロアは違うけど──」

緊張しているのか、彼はあまり俺の方を見なかった。そんなところ同じだ。
どうしておまえってそうなの。心の中で途方に暮れながら彼をなじった。どうして放っておいてくれないの。昔からそうだった。おれの調子が悪い時や精神的に参っているとき、いつもすぐに心配してくれた。おれはそういうときはあまり触れてほしくはないのだけど。でもいつも、不器用ながらおれをすくい上げてくれた。そうして昔と重ね合わせれば合わせるほど、首を締められているかのように苦しくなっていく。おまえは知らない。おれがどれほどおまえに救われてきたかなんて。
それなのに本質はそのままなのか、緊張すると口数が多くなるところや優しくて困ってる人のことが放っておけないところはそのままで。おれは彼の記憶を辿りながらぼんやりと目の前の彼を見た。

「………もう大丈夫だよ」

弁解でもするようにぺらぺらとおれの顔を見に来たと理由を並べる彼の顔を見つめていれば、自然と口角が上がった。きっと情けない、薄っぺらい笑顔だろうけれど。早くこの場から離れたくて仕方がなかった。


「──本当に?」

探るような目がおれを射貫く。もうおれの心を揺さぶるのはやめて。おれの目の前に現れないで。

「……うん。おれ、いつも貧血気味でさ」

すぐフラッとしちゃうんだよね。口から出任せがすらすら飛び出す。嘘をつくおれの顔をじっと見るくせに、おれが見つめ返すと逸らしてしまう。

「ありがとう、心配してくれて。もうおれは大丈夫だから。じゃあね」
「っあ、待って、テヒョンさん」
「……なんでおれの名前知ってるの」
「あなたこそ。俺の名前、俺と同じビルだって知る前から俺の名前を言い当てた。俺の名前は珍しいから、誰かと間違えたとは言わせない。それに、」

「あなたが倒れる時、スローモーションみたいになって、目を瞑って動かない人形みたいなあなたが怖くて仕方なかった。会ったのはたったの二回目だったのに、ひどく混乱して、自分でも分からないくらい動揺した。怖かった、あなたが目を覚まさないかもしれないと思うと。ねえ、俺はあなたとどこかで会ったことがありますか?全くの無関係ではないでしょう?俺、あなたを知ってる気がするんです」
「…………そんなの、気のせいだよ。誰かに似てたんだよ、きっと」

声が震えないようにするのが精一杯だった。いやもしかしたら震えてしまっていたかもしれない。

「あなたに似てるひとなんてそういない。あなたはすごく、綺麗だから」

やめてよ。やめて、昔そのままの顔と声でそんなこと言わないで。
ジョングクはおれに何度か会うことで思い出しかけている。いけない。おまえにおれを綺麗なんて、言わせちゃいけないのに。

『俺のテヒョンイは本当に綺麗だな』
『すごく綺麗。誰よりもね』
『テヒョンア、ねえ。こっち向いてよ。綺麗な顔が見えないでしょう』

次々と頭の中で昔のジョングクがおれに言った言葉たちがリフレインする。数え切れないほどジョングクはおれを綺麗だと言ったから。

「……が、い…………」
「?、どうしました?」
「やめ、て、おねがい。だめ、おれに、そんなこと言っちゃだめ…………」
「え……?」
「……もうおれに、会いに来ないで。本当に体調は大丈夫。あんなとこ、見られたの恥ずかしいし……ッ、助けてくれたのはすごく感謝してるし、お礼、もできないけど………、ごめん」

泣きそうな顔を見られたくない。泣き叫んで崩れ落ちてしまいそうな震える体を見られたくない。
尚もおれの手を掴んで止めようとするジョングクに、「やだ、」と情けない声が出てしまう。その時、おれのすぐ傍にあったドアが開いて、違う手にぐいと引き寄せられた。

「通行の邪魔なんだけど。テヒョンイに何してんの?」

そこにはジミンがいた。ギ、とジョングクを睨めつけて、「何か用なら僕が聞こうか?」とおれを庇うように前に出る。

「じ、みな。ごめん、おれが……ちょっと、頭痛くて」
「そうなの?もう、無理するなって言ったろ。戻ろう、薬ある?」
「ん、だいじょうぶ、ありがと」

ジミンの優しさを利用するようことをしてとても申し訳ないと思うけれど、そうする他になかった。おれがジョングクの名前を知っている理由なんて話せるわけが無いし、あのままでは言うまで解放されなかっただろう。そもそもなぜ彼がおれの名前を知ることになったかを聞きそびれたけれど、もうどうにでもなれという気持ちだった。

「──テヒョンさん」

まだ何か言いたげな彼を扉の外に残して、がちゃんと音を立ててドアが閉まる。俯いて、長い前髪で目を隠すようにしてデスクへ戻り、項垂れた。ジミンが横で心配してくれている。顔を上げて平気だと言わなければならないのに。仕事だって早く進めなきゃいけないのに。何度心配させたら気が済むんだろう。もう嫌だ、何もかも。

過去に囚われた亡霊のように、いつまでも涙を流す。彼の思い出に蓋をしようとすれば、今のジョングクが顔を出す。どうしていいかわからない。途方に暮れて「じみな、」と涙に濡れた声が漏れたとき、ジミンはぎゅう、とおれを抱き締めてくれた。

「あいつ、すごく不思議なやつだよね」
「……え、」
「あいつさ、お前を助けてくれた時にうちのフロアに報せに来たって言ったじゃん。その時に『この人の名前、テヒョンさんって言うんですね』って言ったんだ。僕は教えてないのに。なんで知ってんのって聞いたら、口から反射で出ただなんて言うんだよ。まるで最初から知ってたみたいに、テヒョンイが倒れる瞬間に頭の中で名前がぱっと浮かんだんだって」

そのジミンの言葉に、本当に頭痛がしてきた。彼はおれを思い出しかけている。同じ建物内で、どうしたら完全に彼に会わないようにできるのだろう。

「……なんで、だろうね」

おれ、会ったことないのにな。苦し紛れに絞り出した言葉に、ジミンも首を傾げた。名前が思い浮かんだって、そんな超能力者か何かかよ、と笑い飛ばせるような空気でもなくて、ただジミンは少し考え込むようにしてどこかを見ていた。


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