You will come to like me.



You will come to like me.
君が僕を好きになること




俺は一番が好きだ。

誰にも負けたくない。劣っていたくない。敗北感を味わった後は必ず勝利しなければ気が済まない。
─いつまでも弱いままではいけない。
俺はこう思えるほど最初から強かったわけではない。昔の俺は何をするにも自信が無くて、兎に角恥ずかしがり屋だった。内向的で、自分を見られるのが怖くて、他人からの視線を恐れ、目を瞑り耳を塞いで逃げようとしたことは何度もあった。他人から見下されるのは怖い。怖いから、評価を下される前に逃げていたかった。
それを変えてくれたのは、二つ歳上の兄だった。

「ジョングギは、強い子だよ」

泣きじゃくる俺を抱き締めながら、テヒョンはまるで母であるかのように俺に言い聞かせた。俺が心細くて泣き出すと、いつもの無邪気な顔はなりを潜めた、非道く美しく、優しい兄のテヒョンが顔を出す。低い声が耳に心地よく、細くて長い手指が俺の髪と頬を慈しむように撫でた。落ちかけた涙をはらりと掬い取られて、ぎゅう、と抱き締められる。
俺の事を同じ目線で理解してくれようとしているのは、いつだってこの兄だった。一目見た時から、人形のように整った顔はとても綺麗だったから、何となく目で追ってしまうひとだった。でも綺麗なのは顔だけじゃなくて、内面もだった。いつだって俺のことを気にかけてくれた。引っ込み思案で、輪に加わろうとしない、臆病な俺の手を引いて、本当の弟のように可愛がってくれた。俺が自信を無くして蹲る度に、手を差し出して、立ち上がる手助けをしてくれた。
それでも立ち上がれない時は、薄い胸に俺を抱いて、落ち着くまで心臓の音を聞かせてくれた。

「ジョングギは器用で、なんでもできるよね。おれより振り付けを覚えるのが早いし、音程だって、ふたりきりの時は完璧に取れるでしょう。もし失敗しても、みんな優しいから、お前を馬鹿にしたりなんて絶対にしないし、応援してくれるよ。もし誰かがお前を笑っても、おれは絶対に笑わないし、お前のために怒るよ。お前が怖いなら、おれが守ってあげるから」

背中を擦る手はどこまでも優しい。二つしか歳は違わないのに、甘えているのが恥ずかしい。でも、もっと歳上の兄たちには、同じように甘えるなんてできない。こんな俺を許してくれるのは、こんな姿を見せられるのは、テヒョンだけなのだ。

「‥‥うん。ありがとうございます、テヒョンイヒョン」

やっと顔を上げてテヒョンを見上げると、テヒョンは唇を四角くして笑った。

「ああ、可愛い顔が台無し!ちゃんと目冷やすんだよ。……そうだ、アイス食べようか。買っておいたものがあるから、ふたりで食べよう」

テヒョンが俺を立ち上がらせ、手を引く。俺の涙のせいで濡れたパーカーなんて気にも留めない。それから徐に振り返って、「アイスふたつしかないから、ヒョンたちには秘密だよ」と人差し指を唇にあてた。そんな何気ないポーズすら絵になる兄が、大好きだった。



あれから何年も経って、俺は成長した。歌を複数人の前で披露することすら恥ずかしくて泣いていた少年はもういない。歳上の兄達に馴染めなくてもどかしい思いをすることも、他人の評価ばかりを気にして何もできなくなることも無くなった。自信をつけるために始めた筋トレも功を成し、今やセンターとしてもビジュアルメンバーとしても申し分ない立ち位置にいるという自負がある。世界的に有名なグループのセンターポジションとして、兄達のおかげで成長することができたのだ。
無論テヒョンも、あどけない少年から、大人になった。しなやかな動きや繊細な顔と身体の造りは、中性的な華やかさと色気を湛えていて、その美しさは世界中に知れ渡った。彼がひとたびスクリーンに映し出されれば、それだけで会場が割れんばかりに湧き立つ。照れたように顔を背けるところも、謙虚さが垣間見えている。一つ一つの挙動すら「好感が持てる」「可愛らしい」「素晴らしい」と絶賛されるような、大きな存在になった兄のことが誇らしかった。歌もパフォーマンスも何でもそつなくこなせることから「黄金マンネ」と呼ばれるようになった俺と、美しくて純粋で、誰からも愛される存在のテヒョン。ようやく対等になれただろうか、と考える。

けれど、俺がテヒョンの隣に立ちたい理由は、対等になりたいからとか、そんな純粋な理由からではなかった。それに気付かないふりをしていたかったけれど、どんどん気持ちは欲望と共に膨れ上がって、俺を押し潰そうとした。

清らかで美しいテヒョンのことを、いつも目で追ってしまう。テヒョンが他の誰かに笑顔を振り撒くのが気に食わない。テヒョンが誰かに肩を組まれて、俺の手の届かないところにいるのが嫌。テヒョンがもっと歳上の人達に囲まれて、どこか遠くへ出掛けてしまうのが、嫌で嫌で仕方がなかった。できることならその手を掴んで引き止めて、俺と一緒に居てよと我儘を言いたかった。あなたは誰の兄なの。誰の、ものなの。
そこまで考えついた時、俺の元来の負けず嫌いな性格がこんなところにも出てしまっている、と気づいてしまった。でも、認めてしまえばすとんと胸に落ちた。気づかない振りをしていただけで、それはずっと前からなのだった。俺は、対等になりたかったわけではない。テヒョンの一番になりたかったのだ。好きになってしまった。愛している。心も体も独り占めしてしまいたい。

尊敬する兄を一番傷付けるかたちで愛してしまっていることに、俺は随分苦悩した。
目で追ってしまうのも後をついて行くのも、やめようとすればするほど難しかった。いつだってテヒョンの後ろにいたし、彼のそばに居たかった。けれどそれでは駄目だと分かっていたから、彼から離れようとした。あまりにずっと一緒にいすぎたせいで勘違いをしているのかもしれないから、確かめてやろうとも思った。

結果的に、テヒョンの一番になりたいという思いは消えることはなく、寧ろ強くなってしまった。俺はもうその気持ちに蓋をするのをやめて、開き直ることにした。

けれど肝心の兄は、全くそれに気づいていないのだった。



▲▼


二つ歳の離れた、弟がいる。ここで指しているのは、血の繋がった兄弟ではなく、同じ事務所のアイドルグループとして苦楽を共にしてきたメンバーの、ジョングクのことである。練習生の頃からずっと一緒にいた。人見知りで内気なジョングクは、積極的にメンバー達に関わろうとしなかった。こんなに可愛いのに、どうしてそんなに壁を作っているの、ともどかしくて仕方がなくて、おれはその頼りない手を引いて、幾度も兄たちのところへ引き入れた。末っ子なのだから、一番可愛がられるべきだ。まだ幼いのだから、沢山我儘を言って、今のうちに歳上を困らせておくべきだ。そう思ったから、ジョングクに何を言われても受け入れてやろうと思ったし、いつも味方でいようとした。
ジョングクはおれに心を開いてくれた。誰よりもまずおれの後ろについて移動するし、少し離れたところにいると所在なさげにする。あまり前に出たがる子ではないから、黙って突っ立っていることもあった。おれも目立ちたがり屋ではないけれど、ジョングクが大きな目をきょときょとさせていると、何とかしてやらなきゃ、と思うのだった。ジョングクは俺の中で可愛い弟という庇護欲を刺激する存在だった。

ジョングクは元々プライドが高くて一生懸命で、妥協をしない。おれのように気分屋で、出来にムラがあるのは許せないのか、幾度となく言い合いになることもあった。おれが言葉を紡ぐのが苦手なのを、もどかしそうにしていて、申し訳なく思ったことだって数え切れない。前触れもなくジョングクがおれのことを避け始めたときは本当にショックだった。どうして、と散らばった気持ちを整理する前に、そうか、と無理矢理飲み込んだ。呆れられてしまったかもしれない。そして、ジョングクはもうおれに守られる存在ではない。自分で強く立っていられる一人の男に成長したんだろう。いつまでもおれの後ろをついてくる可愛い子じゃないから、扱いを改めなければならないんだ、と思ったから、ジョングクから距離を取られても、それに合わせるようにして、おれも昔ほど過剰に構うことはやめた。

けれど、それはおれの胸の中を空虚にした。寂しくて、息子が独り立ちするときってこんな感じなのかなあ、とジミンに相談したら、意味ありげに笑って流された。
薄々違うと気付いていた。ジョングクは、昔みたいに小さくない。鍛え上げられた身体はおれより厚くなって、身長だって同じくらいになった。力が強くて、おれじゃ絶対に敵わない。ダンスも歌の実力も、歳下とは思えないほど。色んな面において成長したジョングクを誇らしく思う。それなのに、どんどん遠くへ行ってしまうような感覚がして、胸の底がヒュウと寒くなった。

ねえ、ジョングク。おれ、寂しいな。でも、ジョングクはそうじゃないんでしょう。おれと話さなくたって平気なんでしょう。心の中ですらすらと言葉にすると、涙が出そうだった。


それから暫くして、おれに対するジョングクを覆う独特の薄壁のようなものが無くなった。避けられてるのかな、と悲しくなる回数が瞬く間に減った。おれが「ジョングガ」と呼んでも素っ気なかったのに、今じゃ「なんですか、テヒョンイヒョン」と花が綻ぶように優しく笑ってくれる。差し伸べた手をぞんざいに振り払われることもなくなって、嬉しくて思わずジョングクにぎゅうと抱き着いた。戸惑いながらも受け止めてくれたジョングクは、「どうしたの」とおれを歳上と思っていなさそうな口調でくふくふ笑ってから、抱き締め返してきた。その包み込まれるような身体の厚みに、大きくなったなあ、としみじみ感じると同時に胸がきゅんとする。
なんだ、きゅんって。でも表すならそんな感じだった。頭の中で予想外の胸の効果音の処理に追われているけれど、オーバーヒートを起こしたように、おれの顔は赤くなっていく。

「あ、あの、ぐが」
「え?あれ、顔赤いですね、まさか熱でもあるんですか」

ぱっと離された身体とおでこに押し当てられる大きな手。ひやりとして気持ち良くて、そしておれを覗き込む大きな目が可愛くて、にへらと笑ってしまう。

「何笑ってるんですか?調子悪いんだったら言ってください」
「んーん、だいじょぶ」
「でも目が潤んでるし顔は赤いし……ッ、」

そこで言葉を切ったジョングクは、何かに気づいたようにパッと顔を逸らした。逸らされた首筋が赤くて、どうしたんだろう、と今度はおれが首を捻る。

「ジョングギも顔赤いよ」
「俺のは……不可抗力です」
「?」
「具合悪くないんなら大丈夫ですよね、念の為夜寝る時はちゃんと足先まで布団被るんですよ」

結局最後まで目を逸らしたまま、ジョングクはおざなりにおれを部屋に返した。けれどちゃんと心配してくれていることが嬉しくて。赤くなった顔を両手で包みながらにやにやと部屋に戻り、鏡を見てから気づいた。鏡の中にいるおれは、確かに顔が赤いし、目が水分をたくさん含んでいつもより光って見える。そして、なんだか締まりのない表情。さっきの胸の効果音といい、これじゃあ、まるで……。
ジョングクに抱き締められたとき、おれは何を考えただろう。なんだかすごく満たされた気持ちになって、もっと強く抱き締めて欲しいと思った。できることならまたしてほしいし、もっとできることなら、おれだけ、おれのことだけを。
少しずつ答えをなぞっていくと、今までジョングクに対して抱いていた感情がなんだったのかが明らかになっていく。弟として見ていたはずなのに。どうして、おれは。
ジョングクがおれのことを見てくれるとすごく嬉しい。おれのことを綺麗だ、すごくかっこいい、と褒めてくれると、誰かから与えられるどんな言葉より胸がいっぱいになった。カメラのレンズ越しにおれを見る真剣な目が好きだった。おれが寝ている間におれのベッドに忍び込んで寝るジョングクが可愛くて仕方がなかった。ジョングクが他の誰でもない、おれのことを呼んでくれたとき、いつもおれだけを呼んでくれたらいいのにと思った。でもそれは、望んではいけないものだった。
──ジョングクの一番になりたい、なんて。

胸が苦しい。おれは今まで恋を知らなかった。言われるがままに恋人という関係を結んだことなら何度かあったけれど、おれが相手を好きになってあげられていないのに、同じ気持ちを返すことなんてできなかった。苦しそうにおれに別れを告げる過去の彼女たちはこんなに辛かったんだと、今更ながらに知った。涙がぽと、と枕に落ちて、それを皮切りにどんどん溢れていく。初めて恋をしたと自覚したのに、それは叶うことはないと分かり切っている。悲しいけれど、それはおれのためでありジョングクのためであり、ひいてはグループのためにも、諦めるほかないのだった。

残酷なことに、何かを振り切ったようなジョングクは今までの素っ気なさと打って変わって、とても優しくなった。思春期特有の危うさが徐々に薄れていき、精神面からも余裕が伺える。そして、昔から変わらない可愛らしさも健在していて、ジョングクに恋をしていると認めたばかりのおれには大打撃だった。
しかしふと考えてみる。確かにおれは辛いけれど、男が男に、それもグループのメンバーに恋をするなんて普通なら考えつかない。だから黙っていれば気づかれないだろう、と。その結論に至ったおれは、もうどうにでもなれと半ばヤケになった。ジョングクに積極的に話しに行ったり甘えてみたりして、バレることは無いだろうと鷹を括っていた。胸の苦しさには蓋をして。


▲▼


「最近のテヒョンイ、どうしたんだろうね」
「なにかおかしいところがあるんですか?」

ソファに座っていると、隣へぼすんと勢いよくジミニヒョンが座った。親友を心配しているようで、普段から下がり気味の眉が更に下がっており、どこか不満げにも見える。

「いや、何となくだけど。アンニュイさが増したというか」
「あー。言われてみれば?」
「ため息ついたり、そうかと思えば悲しさを押し殺したように切なく笑ってみたり。どこか影があるっていうか、前みたいなハイテンションさが減って、……色っぽくなった?」

かなり細かい表現に若干引きつつも、彼の親友なだけあって観察眼は流石である。

「……それは、俺も思いました」
「何か悩んでるのかって訊いてもなんでもないっていうし。絶対何か溜め込んでると思うんだけど」

不満そうなのはテヒョンイヒョンから相談してくれないかららしい。確かに彼には、最近落ち着いた雰囲気がある。落ち着いたというよりは、ジミニヒョンの言うようにアンニュイな、儚げな雰囲気すらある。最近更に磨きがかった美貌も相俟って、それはもう黙っていればビスクドールのようだった。俺が話し掛けると嬉しそうにしてくれるけど、どこか覇気がない。しかし、相談してくれないにしろ、俺に甘えてくれるようになったのは大きな違いである。最近のテヒョンイヒョンは、上目遣いに「ジョングガ」と呼ぶと、くいっと俺の服や手を掴んで、ご飯食べに行こう、とか一緒にどこか出掛けよう、とか誘ってくれる。俺の顔色を伺うような控えめなお誘いは、逆にこんな風にテヒョンイヒョンに言われて断れる人なんているのか?という具合だ。しかしそれがとても嬉しくて、最近俺の頭はカーニバル状態だった。だって、とんでもなく可愛いんだから。俺はテヒョンイヒョンへの恋を自覚してから開き直っているので、テヒョンイヒョンの言うことならなんでも聞いてあげようという気にすらなっていた。加えて、先日のあのテヒョンイヒョンの表情。俺が抱き締めた時の潤んだ目と赤くなった顔があまりにも可愛すぎて、多分その時に俺のネジが数本飛んだのだと思う。 もう何でもいい。どちらにせよグループ活動をし続ける限りずっと一緒にいるのだから、その中で出来うる限りことをしてテヒョンイヒョンを繋ぎ止めることにした。そして、時には末っ子という特権を使いまくって、甘えてやろう、とも。幾ら彼の交流関係が広いとはいえ、肉親の次に近い位置にいるのは間違いない。他の誰も近寄らせなければいい。


▲▼

辛い。近況を一言で言うならこれに尽きる。最初こそ「どうせバレないからいいや」などと開き直って舐めたことを考えていたけれど、最近のジョングクのおれに対する甘やかし加減はどういう風の吹き回しなのだろうか。おれの勘違いでなければすごく優しい声で、甘い眼差しを向けてくる。もう拷問のようだ。嬉しいけれど、嬉しくない。可愛いのにどこか大人の男らしい余裕と熱を宿した視線を向けるのは絶対におかしい。おれの目にすごいフィルターが掛かっているのかと思えばそうではないらしく、ユンギヒョンからは「最近のジョングクはテヒョンアに甘いな」と呆れたように言われる始末。おれにそんな視線を向けられてもおれが勘違いを起こすだけで何もいい事は無い。仕方ないのでおれから距離を取ろうとするも、なんだか強引さも以前より増している。例えばおれが「友達とご飯食べてくるから今日は一緒にご飯食べれないし、遅くなるから先に寝ててね」と言っても絶対に待っているし、眠いとか遅いとか文句を言いながらおれがシャワーを浴びてくるまで待って、ベッドに引きずり込んでくる。もう心臓に悪いとかいう騒ぎじゃない。そろそろおれの我慢も限界に来ていた。


この日は個々で仕事があり、メンバーはバラバラで出掛けていた。おれは仕事の後に作曲の作業をしたかったので事務所に行くことにした。夕方になってからメッセージアプリに通知が届いているのに気づき開いてみると、あのメンバー一連絡がつかないと有名なジョングクから「今日は何時に帰ってくるんですか」と書かれていた。これも最近のことだが、他のメンバーにはメッセージを返さないくせに、おれにはしつこく何時に帰ってくるのかとか、どこにいるのかと聞いてくる。長く返信を忘れていれば電話が掛かってくることすらあったから、友達からはついに彼女ができたのかとからかわれたけれど、弟である。それも、片思い相手の。
なんでおれにばっかりとかちょっとしつこいとか言いたいことは沢山あったけれど、今日は気が済むまで作業に打ち込んで神経統一をはかるという狙いがあった。邪念を振り払い作業をすることで何も余計なことは考えなくてもいい状態にしたいのだ。だから、メッセージの返信には「今日遅くなるから絶対先に寝てて」と送った。「何時になるの」と追い立てるように返信が来たけれど、「わからない」とだけ返事をして、それからぱたんとスマホを伏せた。

仕事が終わってから事務所に直行して、晩御飯も食べずにずっと作業をし続けた。作曲とは不思議なもので、もやもやと言葉にできない気持ちを上手く投影できると、どこまでもやれてしまう時がある。固まった肩首を鳴らして伸びをすると、どこかすっきりした気持ちになっていた。外を見るとまだ太陽は顔を出していないけれど、もうじき少しずつ夜が明けてくる時間になっていた。
途中ジミンから「あんまり無理しないようにね」と心配してくれているメッセージが来たから、それには返信したけれど。ジョングクからの「早く帰ってきて」というメッセージにだけは、返事ができなかった。

大きな音を立てないように静かに玄関の扉を開き、体を滑り込ませるようにして中に入る。流石に誰も起きていないようで、おれはホッとしながら上着を脱いだ。事務所に備え付けてあるシャワーを浴びてきたから、あとは着替えて寝るだけだ。くたくたの体を早く休めたくて、裸足でぺたぺた廊下を歩く。眠気がすぐそこまで来ていて、ベッドに寝そべれば一瞬で寝られる自信があった。
それなのに、おれのベッドには何故か先客がいる。なぜジョングクがおれのベッドで寝こけているのだろう。間違えたのか。普通間違えるだろうか。びっくりしすぎて持っていた上着を取り落としたけれど、着替えを取ったらリビングのソファで寝ようと思い直して、黙ってクローゼットに手を伸ばした。あまりに眠くてジョングクを叩き起す気力すら残っていなかったのだ。しかしおれの手はクローゼットに届くことなく、ぱしんと大きな手に阻まれた。言うまでもなくジョングクのものだ。いつも寝起きが酷いなんてものでは無いくせに、どうしてこんなときだけ起きてしまうのだろう。

「……ヒョン」
「…………」
「遅いですよ」
「…………」
「ずっと待ってたのに」
「寝ててって、言ったじゃん」
「ジミニヒョンには返信したのに、俺には返事くれなかった」
「それは……いつ帰れるか、分からなかったから……てかなんで知ってんの」
「ジミニヒョンから聞き出したから。俺のこと、避けてますか」
「っ避けてなんか、」
「嘘だ。最近、帰りが遅いし。俺を見ると逃げ腰になるくせに」

本当に寝起きかと疑いたくなるくらい鋭く切り込まれて、おれの方が言葉が上手く出てこない。知らず知らずのうちに逃げ腰になっていたのだろうか。暗いジョングクの瞳にごくんと喉が鳴る。ちょっとだけ、ジョングクのことがこわい。
掴まれた腕をぎしりと強く握られる。痛いと言っても離してくれない。逃がさない、と視線がそう言っているような気がして、おれは蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けないでいた。

「俺のことが嫌いですか」

俯いたせいで長く垂れた前髪に、いつもの大きな目が隠される。いっその事嫌いになれたら楽なのに。それができないから、苦しいというのに。おれの気も知らないで。

「離して、ジョングク」
「嫌です」
「ね、まだ3時だよ」
「そうやって誤魔化すんですか」
「ちが、」
「テヒョンイヒョン」

名前を呼ばれて思わずジョングクの方を向くと、とても辛そうな顔をしていて。おれがこんな顔にさせちゃってるんだ、と罪悪感。もうどうしていいか、分からなかった。
掴まれていない方の手できれいなジョングクの顔にそっと触れる。眠気なんてどこかに行ってしまった。苦しくて仕方がないし、これ以上ジョングクを振り回すのは可哀想だ。だから、いっそのこと正直に言って、きっぱり「あなたを恋愛対象になんて見られません」と拒絶されれば、割り切って接することができる。 そう思って、「ねえジョングガ、聞いてくれる?」と問うと、ジョングクは何も言わずにこくりと頷いた。

「おれが一番綺麗、好きだって褒めてくれる人って、沢山いるでしょ。すごく嬉しいし、そういった言葉に大きいも小さいもなくて、優先順位なんてつけるものじゃないって、おれは思う。でも、そう思うのに、お前に同じことを言われると、心臓が溶けたみたいになって、おれ、ばかみたいになっちゃうの。それに、ジョングギには一番何よりも誰よりも、好きだって言われたい。他の人には言わないでほしい。そう思うのは、おかしいよね」

ジョングクはおれの言葉を黙って聞いてくれているけど、ところどころで驚いたように目を見開いたり、掴んだままのおれの手を所在なさげに力を強めたり緩めたりしている。離さないのが少し面白い。

「お前はおれを歳の近いお兄ちゃんだと思って好きって言ってくれてるだけなのに、おれってばばかみたいに勘違いして、取り違えて、お前を独り占めしたくなっちゃった。お前に避けられてたときすごく悲しくて泣いたし、お前がおれを甘やかしてくれるようになって、毎日頭がぽやぽやしてた。恋して、浮かれてたみたい。でも、ジョングクの言う好きと、おれの好きは違うから。お願いだから、おれのこと、しばらく放っておいてほしくて。おれのここ、すごく苦しくなっちゃうから」

胸元をぎゅうと握る。どうしてもたどたどしくなってしまうし恥ずかしいし、悲しいし辛い。でも、溜め込むばかりではいつか破裂させてしまうだろうから、言えてよかったかもしれない。視界が歪んでいくのも息苦しいのも、今だけだから。気持ち悪いって言われたらすぐに引っ込ませてみせる。ティッシュどこに置いたかな。瞬きをしたらぽと、と涙が一粒落ちた。

「おれを苦しくしないで、って我儘だよね。こんなこと言っても、お前を困らせるだけなのに。でも、お前がいつもおれを見てくれるから、つい欲張りになっちゃって。ごめんね。そういうわけだから──」

言い終わらないうちにぐん、と掴まれていた手が引っ張られ、バランスを崩したおれは前へよろけた。あ、と思う間もなく固いとのにぶつかって、背中に腕が回り、いつかのように抱き締められる。固いものはジョングクの胸板だった。

「最後まで聞こうと思ったんですけど、あなたがとんでもないところに着地しようとしていたので、黙ってられなくて」
「ちょ、だめだってこういうのがだめなのおれ」
「今度は俺の話聞いてくださいね」
「わかったからお願い、離して……」

ぐず、と鼻が鳴る。涙が止まらないしただでさえぐちゃぐちゃの顔なのに、ジョングクが覗き込んでくるせいで隠せない。

「欲張りになってほしいので離しません」
「え?」
「あなたは俺のことを想って諦めようとしてくれてるのかもしれませんけど、俺はあなたをただのお兄さんだと思ってないんです。いつからかわからないくらい前からあなたのことが、ずっと、……好きで」

少しずつふやけていくみたいに、ジョングクの声色が崩れていく。震えるように好き、と言ったジョングクは、おれの肩に顔を埋めた。しかしおれには昔みたいな甘える仕草にどきまぎする余裕もない。

「好きって、どういうこと……」
「そのまま。あなたは違う好きだって言ったけど、俺はあなたに恋してるんです」
「……うそ」
「こんな嘘ついてどうするんですか。俺はあなたが好きで、それは兄弟愛なんかじゃなくて。あなたを独り占めして、今すぐキスしてしまいたいって、思ってるんです」
「え、え?」

思考が停止したようにぴしりと固まったおれの後頭部にジョングクの手が添えられる。いつもするように髪をさわさわと撫でられて、思わず力が抜けてしまう。その瞬間にジョングクの顔が近づいてきて。反射で目を閉じると、柔らかいものがふに、と当たった。食むみたいに唇を合わせると、求め合うように次第に深くなっていく。途中で苦しくなって目を開けたらジョングクの大きな目ががっつりおれを見ていて「ふぅあ!」と間抜けな声が出た。

「ぁ、な、なんで目、」
「初めてのあなたとのキスなのに目を閉じるなんて勿体なくて」
「ぅぅう」

違う意味で泣きそうだ。多分今びっくりするほど顔が赤いだろう。ジョングクも赤い顔をして、荒くなった息をはふはふと整えているのが、なんだか色っぽくてきゅんとした。じゃなくて。

「おれのこと、好きなの……?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
「そんな素振り全然見せなかったのに」
「はあ?あのですね、いくら兄弟愛が深くても好きじゃなかったら毎晩のように一緒に寝たりしませんし、律儀に帰りも待ちませんし、ふらふらすぐどこかへ行ってしまうあなたをわざわざ捕まえてご飯にも行きませんし連絡もしつこくしないですよ」
「あ……」
「あなたが俺のことを好いてくれてると思わなかったから、開き直ってグイグイ行きましたけど、まさか本当になんとも思っていなかったとは」
「な、何とも思ってなかったわけない!すごくどきどきして苦しかったから、ちょっと距離を置こうと思ったのに」
「……どきどきして、苦しかったの?」
「う、うん」

急にジョングクの声が低くなった気がしてちろりと顔を覗くと、びっくりするくらい男っぽい顔をしたジョングクが「辛い」とぼそりと呟いておれをぎゅう、と抱き締めた。

「辛い?」
「あなたが、可愛すぎて」
「ジョングギもかわいいよ」
「そうじゃなくて」
「おれね、お前にこうやってぎゅってされるのすごく好き」
「いくらでも抱きますよ」
「……なんかいやらしく聞こえる」
「いやらしい意味にとってもらっていいですよ」
「……ばか」







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