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「あーー…どーうすっかなぁ」

2月の終わり。
学食で、竹谷は何冊もの雑誌を机に広げながら唸っていた。
傍らには食べ終わったらしい昼食のトレイが追いやられている。

「八左ヱ門、まだ悩んでいるのか?」

声に反応した竹谷が顔を上げると、食事が乗ったトレイを持ったいつもの顔触れが立っていた。

「お前ら…」
「なんか毎年恒例になってるよな、八左ヱ門がホワイトデーで頭を抱えるの」
「そうなんだよ〜…」

竹谷は深くため息をついた。
久々知が言う通り、竹谷はこの時期…ホワイトデーを迎えるにあたっていつも頭を抱えている。
竹谷が愛して愛して止まない名無しへのバレンタインデーのお返しを考えているためだった。
それも毎年。
数えれば、竹谷が名無しと付き合い始めてからこれで4度目になる。
その度に竹谷は頭を抱え、その度に周りは相談に乗っている。
類に漏れず今年も同じ流れとなっていた。
竹谷と同じテーブルの席に着いた不破は手近にあった雑誌を手に取った。

「今年もまた一段と沢山のホワイトデー特集があるね」
「沢山あり過ぎて困るんだよー…なあ、どれにすればいいと思う?どれにすれば名無し先輩が喜んでくれると思う?」
「え?う、うーん…そうだな…雑誌を見るとお菓子とか雑貨とか色々あるみたいだけど…どれにしたって人それぞれ好みはあるだろうし…ずっと残る物よりかは食べられる物の方が…いや、食べられる物にしたって好きじゃない物を貰っても困るし…うぅーん」

聞かれた不破が先程の竹谷と同じくらい頭を抱え、悩み始める。

「八左ヱ門、雷蔵を悩ませるな」
「え?あっ、悪い」

鉢屋に指摘をされ、竹谷が慌てて謝る。
それを見ていた尾浜が「じゃあさ」と指を立てた。

「やっぱり定番のマシュマロじゃない?マシュマロの詰め合わせとか…」
「毎年毎年そう言うの止めろ勘右衛門!俺もうマシュマロの意味分かってんだからなっ!?まず定番でもないし!」

ホワイトデーに送るお菓子には意味がある。
マシュマロを送る意味は「あなたが嫌い」である。
それをさらりと提案する尾浜に竹谷は声を荒らげて怒った。

「初めてのホワイトデーの時、なんっにも知らずに名無し先輩に渡しちまって大変だったんだからな!?名無し先輩は優しいから俺が無知なのも笑って許してくれたけど!冗談でも名無し先輩に、き、嫌い…とか!言えるわけねーのに!」
「あはは、冗談だってば」
「冗談に聞こえねーんだよ…!」
「なら良い意味の物を送ればいいんじゃないか?」

昼食の豆腐ハンバーグを頬張りながら久々知が聞く。

「うーん…それは次の年に渡したんだよなぁ…」
「そうだっけ?何渡したんだ?」
キャンディとキャラメルとマカロンとカップケーキとバウムクーヘンとマドレーヌの詰め合わせ
「…物凄い量だな…」

竹谷は指を折々、名無しにあげた物を上げていく。
それに鉢屋だけではなく他のメンバーも苦笑いを浮かべる。

「仕方ないだろ!?俺は名無し先輩が好きだし一緒にいると安心する特別な人だし、この関係がずっと続いて欲しいしもっともっと仲良くなりたいと思ってんだからな!」
「あぁ、思い出してきた。確かこのくらいの袋5つくらい渡したんだよね…」

不破が目の前にあるトレイと同じくらいの大きさをぐるりと示す。
一昨年はその大きさの袋に竹谷が言った菓子類をパンパンに詰めて、それを5袋も渡したのだ。
明らかに1人の女性が食べられる量ではない。
一昨年の竹谷曰く「名無し先輩に対する愛はこれじゃ足りないくらいだ」とのことだった。

「同じ物は避けたいんだよなぁ…ワンパターン化させたくないって言うかさー」
「その気持ちは分からないでもないけどな」
「じゃあ去年の物とも被らない方がいいってことか。去年は確か…」
名無し先輩への想いをつづった手紙(巻物状)だった」
「あぁ…」

お菓子が続いたために次は別の物を、と考えた結果手紙に落ち着いたのだった。
しかし去年もまた量が半端でなかった。
言葉通りに名無しへの想いが溢れ、手紙を入れる封筒にも書類を入れる封筒にも詰められない量になってしまったため巻物状なるよう繋げ、渡したのだ。
一目見るとそこそこ良い値が張りそうな掛け軸にも見えるくらいであった。

「あんなの貰ったら私だったらキレてたな」
「分かる」
「いやお前らに渡すヤツじゃなかったんだからいいだろ!?名無し先輩は喜んでくれてたし、ちゃんと返事もくれたしな!…それがまた良くってさぁ!今でも部屋に飾ってあるんだよ!」

そう言って嬉しそうに語り始める竹谷。
いつの間にか相談が惚気話になりつつある。

「八左ヱ門、今は思い出話をしたいんじゃないだろ?今年はどうするかを早く決めないと」
「はっ!そ、そうだったな!」
「候補とか無いのか?例えば…こういうのとか」
「コスメかぁ。いいんじゃない?こういうの好きな子多いし」
「でも名無し先輩、ほとんど化粧しないんだよな。…でも使わないであの綺麗さってやばくないか!?それだけ元がいいってことだよなぁ!」
「はいはい。じゃあ…服は?今年はミントグリーンが流行るみたいだしさ、こういう色は名無し先輩にも合うんじゃないかな」

尾浜はぱらぱらとページをめくり、今度はファッションのページを開いて竹谷の方に向けて見せる。
しかし竹谷の顔はパッとしない。

「うーん…そりゃあ名無し先輩は何色でも似合うけどさぁ。服選ぶのって難しいだろ?まず俺センスねーし…」
「あぁそうだな。それは知ってる」
「知っ…三郎ぉ!そういうことは分かってても言うなよなぁ!」
「先に自分で言ったんだろ…。それより八左ヱ門、お前さっきから否定ばっかりするけど、自分のことなんだからもっと案を出したらどうなんだ」

鉢屋に咎められ、竹谷は「う」と声には出さず口を曲げた。

「わ、分かってんだけど…名無し先輩に下手な物渡せないっていうのが余計プレッシャーになってきて、考えれば考えるほどこんがらがってくるんだよぉ」
「…そんなに悩むんならもうお礼だけでもいいんじゃないか?名無し先輩ならそれでも怒らなさそうだけど」
それはダメだ!名無し先輩は怒らないだろうけど、それじゃ俺の気が済まない!しっかり気持ちがこもった物を送りたいんだよ!」

そう言った竹谷は雑誌を引き寄せてばらばらとめくる。
周りは揃って「面倒くさい奴だな」とばかりため息をつくが、真剣そのもので雑誌を睨んでいる竹谷を誰も見放さない。
竹谷以外が昼食を取り終わるまで、様々な物を提案しては竹谷が却下する…を延々と繰り返していた。
しかし直ぐに名案は見付からず、鉢屋達がトレイを片付けて席に戻って来てもなお議論は続いていた。
雑誌は全て見尽くしてしまったため、すでに閉じられて机の隅ににまとめられている。

「うーん…これっていう物が見付からないね…」
「今のところ1番良い案は婚姻届だよなぁ」
「俺達は良い案とは言ってないんだけど」
「…そこに行き着くあたり、私達迷走してる気がするな…」

鉢屋が言えば、竹谷以外が皆頷く。

「いや、でも俺も婚姻届がベストだとは思ってないんだよ」
「え?そうなのか?」
「だってこういうのはバレンタインのお返しとかじゃなくて、もっとちゃんとした場で渡したいだろ!もちろん今すぐにでも名無し先輩と結婚してーけど!」
「…あぁそう…」
「それはともかく…俺思ったんだけど、一昨年渡したお菓子じゃねーけどそういう裏の意味がある物って何かないかな?」
「裏?例えば?」
「ほら、飴を渡すと「あなたが好き」って意味があるだろ?それみたいに、物を渡した時に喜んでもらえて、裏の意味に気付いた時にまた喜んでもらえる…みたいなさ!名無し先輩には沢山喜んでもらいたいんだよ!喜んでくれた顔がみたい!」
「まぁた難しい注文だな…」

そう文句をつけながらも、一同は腕を組んだり宙を見つめたりして思案する。
そんな中、尾浜は鞄からスマホを取り出して手際よく調べ始めた。
その様子を見ていた竹谷が向かい側から聞く。

「勘右衛門、なにか出てきたか?」
「うん、結構あるみたいだね。別の意味があるってことだと、花言葉とかかな」
「花言葉…じゃ、花束ってことか?」
「渡す物としてはベタかもしれないけど、喜ばれそうだよね」
「なるほどな…それ良いかも」

花束ならば服ほどセンスを問われるものではなさそうだと、竹谷は安心する。
良い意味を持つ花をあらかじめ調べておいて、花屋で頼めば良いのだ。
贈り物として見栄えもいいし、なかなか悪くない案だ。

「他は…財布はいつもそばに居たいって意味があって、腕時計はあなたと同じ時間を過ごしたいって意味があるらしいよ」
「うわぁ…意味はすげー良いけど、財布も腕時計も簡単に買えねぇよ…」
「高校生には値段は死活問題だからな…」
「値段も気にするとなると…マフラーとかリップとかどう?マフラーはあなたに首ったけって意味があるよ。リップはキスしたいって意味があるね」
「リップって口紅のことか?…でもそれだって高いんじゃないか?」
「そんなことないよ。ピンからキリまでだから、充分買える値段だと思うし。…あぁ、あとリップを送ったら「少しずつ返してね、俺の唇に」っていう小ネタも使えるんだよね」

尾浜が自分の口元に指を添え、冗談めかして言う。
だがその途端、竹谷がぱっと目を輝かせた。

「えっ!?じゃあそれにする!」
「え?リップ?」
「ああ!決まりだ!」
「い、いやいや決まりって…まずそれコスメじゃないか。さっき名無し先輩はほとんど化粧しないって言ってたのに…それにそういうのも好みがあるだろうし、センスだって問われると思うけど」
「名無し先輩に似合うもの選べばいいだけの話だろ?口紅がいい!それで沢山キスしてもらいたい!!」
「それが本音か…」
「…気持ちがこもった物を渡したいって言ってたのに、結局八左ヱ門の私欲じゃないか…」

久々知がそうツッコミを入れるが竹谷本人は何処吹く風だ。
あれほど悩んでいたというのに決まってからはあっという間だった。
竹谷はバッと雑誌を抱え込み、満面の笑顔で立ち上がる。

「よーし!じゃあ俺、今日にでも買いに行く!」
「決まったのなら良いけど…八左ヱ門のセンスで大丈夫なのか?」
「なんなら全員で行って選ぶってことも…」
「いや、そこまで手伝ってもらうことねぇよ!ありがとな、やっぱり持つべきものは友達だよなー!」

そう言って竹谷は足早に学食から出て行った。
残された4人はそれぞれ顔を見合わす。

「…大丈夫だと思う?」
「果てしなく心配だけど…八左ヱ門がああ言うんなら、手出しはしない方が良いかもしれないよね」
「言っちゃえば自己責任だからね」
「…と言うか勘右衛門、やけに詳しかったな。もしかして実体験か?」
「え?ああ、リップの話?あはは、ノーコメントで」
「うわ、怪しい言い方だな」
「まあまあ、俺の話はどうでもいいから。今は八左ヱ門がおかしな物買って来ないように願っておこうよ」

自分の話は上手くはぐらかし、「ね?」と尾浜は笑う。
聞いた鉢屋もそれ以外もそれ以上は掘り下げようとしなかった。
代わりに視線を出入口の方に視線を向ける。
…その4人の顔はどことなく不安げであった。


そして時は流れ、ホワイトデー当日。
学校は春休みになっていたが、いつものメンバーは竹谷の部屋に集まっていた。
今日の午後、竹谷は名無しと会う約束をしている。
その時にホワイトデーの贈り物を渡す予定だ。

「…これか」

部屋に入った4人が真っ先に目にしたのは、真ん中の机に置かれた白い小洒落た袋。
その中にプレゼントが入っているらしい。
竹谷は胸を張り大きく頷いた。

「ああ!店何件も回ってすげー悩んだりしたんだけど、いいやつ見付けられたんだよー!綺麗な名無し先輩には綺麗な色が合うはずだからな、これで間違いないはずだ!」
「…ちなみにどういうの買ったの?」

自信に満ち溢れている竹谷が逆に不安になり、不破が問う。
すると竹谷は得意げに笑って机の前に腰を落とした。

「見たいか?仕方ねーなぁ、少しだけだぞ!」

そう言ってがざがさと袋から小箱を取り出す。
それも袋と同じく、白色だ。
雑な動きに見ている側がハラハラとするが、そんな気も知らずに竹谷は箱を机の上に置いた。
ぱか、と蓋を開けると、そこには小さい黒い筒…リップが納められている。
黒地に真っ赤な薔薇達が描かれた、なかなかお洒落な品だ。
竹谷が選んだとは思えないセンスのあるリップに、一同驚きを隠せないようだった。
それぞれ目を丸くさせ、竹谷の顔を見る。

「…これ、本当にお前が選んだのか?」
「おう!…って、なんだよお前ら、その疑るような目は?」
「いや…八左ヱ門のことだから、間違っておかしな物を買ってくると思ってた。リップだと思って買ったらスティックのりだった、とか」
「勘右衛門は俺をなんだと思ってるんだ!?いくらなんでもそんな間違いしねーよ!俺だってやれば出来るんだぞ!?」
「ごめんごめん。想像以上に良い物だったから、つい」

尾浜にからかわれ(貶され)て膨れっ面をしていた竹谷だったが、「良い物」と褒められるとすぐさま表情を明るくさせた。

「だろ!?やっぱりいいだろ!?色は濃い赤なんだけどそこにあった中で1番良い色だったんだよ。これなら名無し先輩も喜んでくれるよなー!」
「え?ちょっと待て。濃い赤?」
「ああ、この薔薇と同じ色なんだ!赤い薔薇って「あなたを愛します」って意味があるからさ。そこもちゃーんと調べたからな!」

竹谷はこの上なく完璧な物を選んだと思っているようだった。
もはや名無しが喜んでくれる姿しか想像できない、とだいぶ強気になってきている。
…が、その横で鉢屋が許可もなくリップを手に取り、開ける。

「あ!おい、三郎!?何勝手に触ってんだ!」

鉢屋の行動に竹谷は目を見開き、慌てて取り返そうと手を伸ばす。

「うわ、これは酷いな」
「…えっ」

しかし鉢屋から発せられた言葉にぴたりと動きを止めた。

「ひ、ひどい?な、何が?」
「何がって色だよ色」
「い、色?き…綺麗な赤だろ?」
「綺麗って言うかキツい赤だね…」
「こんなハッキリした赤、普通の大人でも使わないんじゃない?芸能人とかモデルとかならともかくさ」
「さすがに名無し先輩には合わない気がするな…」
「気がするというか、まず合わないだろ」

リップの見た目を褒めていた時から一転して、今度は全員でダメ出しを始める。
そうなるのも仕方がないくらい派手な発色のリップなのだ。
尾浜の言う通り、テレビでモデルが使うような赤。
柔らかい雰囲気の名無しには、久々知や鉢屋が言ったように合わないだろう。
リップの赤に対極するように竹谷の顔色がさーっと青くなる。

「えっ…え?だ、だめなのか?な、なんだよお前らっ!さっきまで良い物とか言っていたくせに!」
「見た目は良かったんだよ…」
「八左ヱ門、よりによって何でこの色にしたんだ?店員さんにアドバイスとか貰わなかったのか?」
「だ、だって自分で選びたかったし…!な、なあ、これ本当に駄目なのか!?名無し先輩、嫌がっちまうかなぁ!?」

竹谷はリップと箱を掴み、必死の形相で4人に詰め寄った。

「嫌がることはないと思うけど…」
「けど!?」
「使いはしないだろうね。使わないというより、使えない」
「そんなあぁ!!」

嘘だああぁ、と喚きながら机に突っ伏した。
名無しが使えないということは、尾浜からの提案「少しずつ返してもらう」という願いも叶わないのだ。
手に掴んだままの箱がぐしゃりと歪む。
不破が慌てて止めに入った。

「あ、あーあー駄目だよ八左ヱ門!せっかく綺麗な箱なんだから!」
「箱はな!?箱は綺麗でも中身が駄目なら意味がないんだよぉ!もう捨てる!名無し先輩が貰ってくれないんなら、いらねーよこんなの!」
「いや貰ってはくれると思うけどな…うわ止めろ!捨てようとするな!」

起き上がった竹谷がリップをゴミ箱に投げ入れようとするのを既で押さえる鉢屋。

「だっていらねーだろ!?贈っても使ってもらえないんならただのゴミだ!ゴミ渡しても名無し先輩を困らせちまうだけだ!」
「そんなこと言うなよ!せっかく八左ヱ門が悩んで買った物じゃないか!」
「俺が悩むことなんてどうでもいい!大事なのは先輩が喜んでくれるかどうかなんだよ!困らせる物渡す訳にはいかないだろっ!だったら捨てる!今から別の物買ってくる!」
「別の物って言ったって、何を買うつもり?」
「そ、それは…な、なんか…花束とか!ほら、薔薇の花束とか!」
「近くに花屋ないだろ…。それより時間いいのか?そろそろ待ち合わせの時間だろ」
「え!?」

指摘をされて竹谷がスマホの時計を確認すると、時間は3時5分前。
名無しと待ち合わせをしている時間は3時だ。
待ち合わせ場所は近くの喫茶店なのでまだ間に合うが、新しいプレゼントを買う時間はどう考えてもない。

「そ、そんな、俺、どうしたら…!」

買いに行っていたら待ち合わせに遅刻をしてしまう。
名無しを待たせることはしたくないし、だからと言って何も渡さないこともしたくない。
しかし使えないであろうリップを渡して名無しを困らせたくもない…。
堂々巡りに陥って、竹谷はただ部屋を右往左往し始めた。

「とにかく、待ち合わせには行った方がいい。名無し先輩を待たせたくないんだろ?」
「そ、そうだけど…!」
「これを渡すかどうかは八左ヱ門が決めればいいけど、待ち合わせの約束を破るのは良くないんじゃないか?」
「うう…!」

久々知が形が崩れかけた箱を直し、リップを手際よくしまう。
表面に皺が残っているがそれに文句を言っている暇はない。
元あったように袋に詰め、竹谷に押し付ける。

「ほら、行って来い!」

鉢屋達が竹谷の背中を押す。
されるがままに竹谷は財布とスマホ、そしてリップの入った袋だけ持たされ、部屋から追い出された。
バタンと強く閉められた扉を見て、竹谷は途方に暮れた顔になる。
それから数秒間、手元の袋とスマホを交互に見ていたが…ぐっと覚悟を決め、走り出した。



走って3分、時刻は3時きっかり。
竹谷は待ち合わせ場所の喫茶店に着いた。
急いで来たせいで息は上がっている。
その息を整えながら扉を開くと、からんと扉に付いた鈴が鳴った。
音を聞いた店員が声を掛けてくるより先に待ち合わせだと告げて店内を見渡した。
すると店奥の窓際の席に名無しの姿を見つけた。竹谷と目が合い、名無しが手を振る。

「すみません、名無し先輩!お待たせしました!」
「ううん、全然待ってないよ」

名無しは柔らかい栗毛をふわりと揺らして微笑む。
名無しの服装はいつも控えめで露出も少ない。
今日もネイビーのニットに淡い白の膝丈スカート、紺のタイツという控えめな格好でありながら、女性らしさが詰め込まれた姿に竹谷はつい見蕩れてしまっていた。

「走って来たの?髪が乱れてるよ」

名無しは立ち上がって竹谷の髪に触れる。
いつも以上に乱れている髪を撫でるようにして整えれば、竹谷はでれっと表情を崩して笑った。

「ありがとうございます〜名無し先輩」
「ふふ」

それにつられて名無しも笑う。

「ほら、座って?」
「はい!」

促されて、名無しの向かいの席に座る。
手に持っていたスマホや財布、そして袋を無意識に机の上に置いた。
それはメニューを手に取った名無しの目にも自然と入る。

「それは?」
「え?…あっ」

何気なく名無しに聞かれて、そこでハッと竹谷は思い出す。
手に持っていた物の存在も丸々忘れられてしまうくらい、名無しに会えることは嬉しいということなのだが…今は嬉しさに浸っている場合ではなかった。

「え、えっと…これは…その」

動揺しながら袋を掴み、名無しの見えない位置に引き寄せる。
まだ渡す決心がついた訳では無いからだ。
そんな竹谷の態度から、聞いてはいけないものなのだと名無しは判断する。

「あ…ごめんね。それより、何か頼もうか」

わざと話を逸らすようにメニューを竹谷の前に広げた。
名無しの気遣いに少し安堵してしまった竹谷だが、一方で罪悪感も膨らむ。
ここに来るまでに一瞬、リップは渡さずに本当にお礼だけで済ましてしまおうかと考えてしまった。
バレンタインのお返しの話すらするのを止めようかとも考えた。
…しかし、毎年名無しから心のこもったバレンタインのお菓子を貰っているのだ。
何もしないのは、名無しの自分への気持ちを蔑ろにしていることになる。

「ハチは何にする?何か食べる?」
「あ、あの!名無し先輩!」
「ん?」

名無しはメニューから顔を上げると、目を丸くさせた。
竹谷が先程の袋を両手で掴み名無しの前に突き出していたからだ。

「…これは?」
「ば…バレンタインのお礼です!ありがとうございました!」

名無しに向けてがばっと頭を大袈裟に下げた。
それが自分のためのものとは思っていなかった名無しは目を瞬かせるが、直ぐに微笑みを浮かべる。

「それ、私にだったんだ。…ううん、私の方こそいつもありがとう。嬉しい」
「い、いえ…へへ」

優しい笑みを向けられて、竹谷は照れ臭そうにはにかむ。
そして名無しに袋を渡す…が、急に竹谷は「あっ」と声を漏らした。
一度は手を離したのだがすぐにまた袋を掴む。
すでに名無しが触れていたため、名無しの手ごと包むように掴むことになる。

「…どうしたの?」
「…いや、その…」

名無しが袋を手にするのを見て、竹谷は不安に駆られていた。
何かお礼をしなければならないという、どこか義務感に近い感情に動かされ渡した…のは良いのだが、問題はその中身だ。

「これ…俺が選んだんですけど…名無し先輩には…合わないかもって…言われてしまって…」
「そうなの?誰に?」
「…三郎達に…」

今にも消え入りそうな小さな声で竹谷は伝える。
自信が落ちると同時に視線も落ちて、いつの間にか竹谷は机を見つめながら話を続けてゆく。

「お、俺、そういうの分かんなくて!センスもないし!でも、こんなに一緒にいるのに名無し先輩に合うか合わないかも分からないなんて、なんか凄く情けない、ですよね…」
「…」

竹谷の言葉を、名無しは黙って聞いていた。
すると、名無しは竹谷の手から逃れた。
代わりに今度は名無しが竹谷の手ごと、袋を包み込む。
竹谷は視線を机から手に、そして名無しの顔へと移す。

「そうかな?合うか合わないかなんて私は気にしないよ」

にっこりと名無しが微笑む。

「周りの人が何て言おうと、これはハチが私のために一所懸命選んでくれたんでしょ?それなら、どんな物でも嬉しいよ」
「名無し先輩…」

名無しに掛けてもらう優しい言葉と優しい笑顔は、竹谷の中に渦巻く不安や苦しみを一瞬にして消し去ってくれる。
どれだけ不安があっても、どれだけ悩むことになっても、最後は名無しが包み込んでくれるのだ。
この手のように。

「これ、開けてもいい?」
「あっ…はい、勿論」

名無しが手を離し、順に竹谷も袋から手を離した。
袋を引き寄せて中から小箱を取り出す。
さっきは勢いで握り潰そうとしてしまったが…リップが入っているこの白い箱は、名無しをイメージして選んだものだった。
真っ白で、純粋で、純白。
そんな箱を開けると、中には真っ赤な薔薇が描かれたリップが佇んでいる。

「え…わ、リップ?」

蓋を取れば真っ赤なリップが現れる。
名無しは目を輝かせて、角度を変えながらリップを眺める。

「すごい、綺麗な色だね」

そう言われ、竹谷はギクリとした。
名無しの手元にあると、如何に色が濃いかが分かる。

「…俺もそう思って選んだんですけど…やっぱり派手過ぎ…ですよね?使えないなら捨てていただいても構いませんから!」

しかし、名無しは首を横に振った。

「そんなことしないよ。確かにリップとしては少し濃いめかもしれないけど」
「う…や、やっぱり」
「でも、そういう濃いものを上手く使う方法もあるって聞いたことあるから。チークとして使ったり、リップとしても薄めれば普段使いも出来るんだよ」
「え?…そうなんですか?」

竹谷は目を丸くさせ名無しを見た。
名無しは頷き、リップに蓋をする。

「私はあんまり詳しくはないんだけどね、絶対使えるから。ハチが選んでくれたものだから、使いたいの」

使いたい、というさりげない言葉の中にも、名無しの優しさが溢れていると竹谷は感じた。

「…ありがとうございます、名無し先輩」
「ふふ、貰ったのは私なんだからお礼を言うのは私の方だよ。ありがとう、大事に使わせてもらうね」
「…はい!」

竹谷は大きく頷いた。
名無しがリップを箱にしまい、袋に戻す姿を眺める。
そしてふと目が合うと、どちらからともなく笑顔になった。
ああ渡して良かったなぁ…と竹谷が幸せに浸っていると、そこで尾浜に言われた言葉を思い出す。

「名無し先輩」
「ん?」
「あの、それを渡したのにこう言うのはおかしいかもしれないんですけど…リップを使ってくださるのなら、少しずつ俺に返して欲しいです」
「え?」

元はと言えば名無しにキスをして欲しいという私欲でリップを選んだようなものだ。
一時は使ってくれないんじゃないか…という心配もあったのだが、杞憂だったと分かった今、本来の目的に戻す時だ。
初めはきょとんとした顔で竹谷を見つめていた名無しだったが、笑顔に戻って自分の唇に指を当てた。

「つまり、ハチのここにってこと?」
「あ、ご存知だったんですね」

しかし知っていたのなら話は早い。
竹谷はわざとらしく上目に名無しに視線を送る。

「…ダメですか?」

こんな懇願するような目で見なくとも優しい名無しは竹谷を拒否しないと分かっているが、ついつい甘えた態度を取りたくなってしまう。
学校では頼り甲斐のある先輩として後輩達から慕われているけれど、その反動か、包容力のある年上の名無しの前では弱い部分をさらけ出したくなるのだ。
名無しも名無しで、そんな竹谷をついつい甘やかしてしまうので、上手く成り立っている関係なのだろう。
そして今も、竹谷の思った通り名無しは微笑んで頷いた。

「なら…少しずつね?」
「やった!じゃあ!じゃあ!」

机に身を乗り出して、竹谷は目を閉じ唇を突き出す。

「え、今?まだリップは使ってないよ」
「使っていなかったらキスしちゃいけないってルールはないですから!」

と言う竹谷は目を開けようともしない。
名無しは困って苦笑を浮かべた。
キスを求められるのは嬉しいけれど、さすがにここでは人目があり過ぎる。
他のカップルの行動を見ている人間なんていないだろうが、やはり名無しは気が引けてしまうようだ。

「…ごめんね、今はちょっと」
「えー!?何でですかぁ」
「ここは人も多いし…我慢してくれる?」

拒否せずに竹谷を受け入れてくれる名無しでも、やはりTPOの弁えがしっかりしていて全てを了承する訳ではない。
それは竹谷も分かっている。踏まえた上で我儘を言っているのだ。
無茶な要求だと理解してはいたものの、竹谷は拗ねた子どものように頬を膨らます。

「…分かりました。「今は」我慢します」

わざとらしく「今」を強調され、苦笑しながらも名無しは「えらいえらい」とその頭を撫でた。
すると竹谷の表情はコロッと変わり、嬉しそうに頬を緩めた。

「そろそろ注文しない?どれにする?」
「はい!えーと、じゃあ…」

名無しが改めて言い、2人は頭を突き合わせてメニューを見始めた。
あれこれと会話を繰り返し、時に顔を見合せ笑い合う。
そんな何気ない幸せを見守るように、名無しの傍らに置かれた袋が、窓からの暖かい光に照らされていた。


おわり