「はー……ただーいまー…」
溜息とともに部屋のドアを開けた。 それと同時に部屋に居た平古場が顔を上げる。
「おう。遅かったなぁ」 「まあねー…これから忙しくなる時期って聞いてたしねぇ…。いいなー凛くん、今日休みだったんだよね」
名無しが恨めしい目で平古場を見る。
「ま、ここしばらく休みなかったから当然やし」 「それはそれは、人気美容師は辛いですこと」 「ぬーよ(何だよ)、嫉妬か?」
名無しは皮肉を混じえて言うも平古場には通じず、悪戯っぽい笑みで返される。 ちなみに名無しは旅行代理店で、平古場はローカルではあるが雑誌に取り上げられるほどの人気美容師として働いている。
「違うしそんなんじゃないし」
そっぽを向いた名無しは上着を脱いだ。 仕事用に結わえていた髪も解いたが、その時ふと気付く。
「…うっわ、なんか香水臭っ」 「は?」
名無しの言葉に平古場は眉を寄せた。 それを気にもせず名無しは自身の髪を手櫛で何度も梳かす。
「香水って、どう言うくとぅなんばぁ?つーかたーぬ(誰の)奴よ」 「誰のとか分からんしー…ま、風呂入れば直ぐ取れると思うけどね」
訝しげな顔している平古場とは逆に楽天的に肩を竦める名無し。
「…こっち来い」
平古場が神妙な顔付きになり自分の方を指差した。
「え?なんで?」 「……いいだろ別に」 「えー……まあご飯食べたいし後ででいい?いーよね?」
訳を話さない平古場に首を傾げながらも名無しは机に向かおうとする。
「良くねーっつの」 「!」
いつの間にか近くに来ていた平古場にぐい、と後ろから首に腕を回され名無しは無理に引き寄せられる。 そのまま平古場は名無しの髪に顔を埋める。
「ちょっ、なに!?ち、ちっか!近い!」 「…ふらー、これいなぐ(女)の香水だろ」 「はっ?」
顔を髪から離し、どこか安堵したような声で平古場が言った。 体勢を変えずに名無しの肩に顎を乗せた。 振り向くに振り向けない名無しは僅かに顔を傾ける。
「香水っつーからたーのモンだって思ったら……手間かけさすんじゃねーらん。いきが(男)の奴かと思っただろ」 「いや、別に変な人のじゃないからね?店に来る人でキツイのつけてくる人いるんだよね、おば様とか若い子とか。特定して誰とは分からないけどたぶんその人達のだよ」 「……ま、考えたらやーはいきが誑かすような高度な真似出来ねーし当たり前か」
そう言いつつも平古場ははぁと息を吐いた。
「の割には切羽詰ってたようだけどね」 「かしましい(うるさい)」 「いででで」
茶化すように言うと、手加減しながらも平古場は腕に力を入れて締める。
「ていうか珍しいよね、凛くんがこうやって言うの。いつも余裕かましてんのにさあ」 「…たーがいつ余裕あるってあびた(言った)よ」 「え?」
平古場は呻くように小さく言う。
「時間も合わねーし、わん居ねぇとやートロいからどんなふらーに絡まれるか分かったもんじゃねーらん」 「ひっどい言われ方だな。私の職場お偉いさん以外女の人だけだし、そーいうの無いけどね…どうせコミュ障だし」 「客にぬー(何)考えてるか分かんねー奴いるかもしれねーだろ」 「…ていうか、それだったらうちこそ心配だけど?美容師とかただでさえ人気ありそうなのに、凛くんみたいな見た目だけはいい人なんて女の人集めまくるじゃん」 「…見た目だけは、ってぬーよ」 「そこは聞き流してくれて良かったのに。…私だってこれでも凛くんに女の人つかないか不安なんだけどね…。連絡先渡されるって同じ美容室の人から聞くけど」 「そんなん断ってるっつーの。彼女いるっつーくとぅ(事)も公言してるしよー」 「してても最近の女の人押せ押せだからね…。にしても、私ってよく3Bの職業についてる凛くんと付き合ってるよね」
苦笑して名無しが言う。 3Bとはバーテンダー、バンドマン、美容師である。 その職業は仕事をする上で金がかかる上に、ちやほやされる職業であるため女の影も絶えず、付き合うには苦労する三大職業とも言われている。
「…わんがくぬ(この)仕事就く前から付き合ってんだろ。嫌ならなる前に止めれば良かっただろー…」
不貞腐れたような声を出す平古場だが、名無しは「いやいや」と返した。
「別になって欲しくなかった訳じゃなかったしさ。それに仕事してる時の凛くん格好いいし何より楽しそうだし。私はそれ見てるの好きだから応援したんだよ」 「……」
名無しがそう言うと、平古場は押黙る。
「…なに?照れた?」
再び顔を傾けて様子を伺おうとする。
「…名無し」 「うん?…え?…うっわ!?」
急に名前を呼ばれたと思った途端、横抱きにされそのままベッドに押し倒される。
「ちょっ…ちょちょちょっ!い、いきなりだなぁ!!なに!?」 「いや………やーと一緒になって良かったって思ってな」
苦笑のような、はにかんだような顔で平古場は言う。
「…へ?」 「やーはそこらのいなぐより可愛い訳でもねーしスタイルがいいわけでもねぇ。それにセンスもよくねーらん」 「面と向かってえらく悪態つくねあんた…」 「やてぃん、わんのくとぅ1番分かってんのは名無しさぁ。…一緒に居て気ぃ遣わなくていいっつーか……今じゃ一緒に居るのが当たり前になったしよー…やーと逢えて良かった」 「お、おぉ……あ、ありがと…」 「…ぬーちら(顔)赤くしてるんばぁ」 「い、いや…嬉しいこと言ってくれるし、というか近いし……そういう凛くんの顔も赤いけどね!慣れないこと言うからだし!」 「うっせ」
名無しが平古場の頬に手を伸ばすと、それに自分の手を重ね指を絡めた。 視線が合うとどちらからとなく笑みが溢れ共に笑う。
すると思い出したように名無しの髪を撫でた。
「……1日働いてりゃかなり匂い付くもんだな」 「まーね。そりゃ長く対応してたらそれだけ付くもんだしね」 「…なら、他のやつなんか付かねーくらいわんの匂い付けてやるさぁ」 「え」
ぐっとより近づき笑みを浮かべながら平古場は言う。 しかし。
「あー…うーん…凛くん香水強いほうだし遠慮しとく」 「…は?」
まさかの返答で平古場は気の抜けた声を出してしまう。
「…いや、空気読めよ。ぬー否定してんだよ」 「えぇ?いや私香水あんま好きじゃないから。いや凛くん否定してるわけじゃないけど…強いて言うなら匂いとか無い方がいいかなーって」 「…やー、わんが何しようとしてるかは分かってんだろーな」 「それはまあ、子供じゃないから」 「なら拒否ってんじゃねーんどー。子供じゃねぇんなら」 「それはそれ、これはこれだから!」
名無しのお気楽な笑顔に平古場は呆気にとられた顔になる。 そして次第にイラつきが顔に浮かんできた。
「…え、何その顔。怖いんですけど」 「…あったま来た。今日寝かせねーからな」 「はい!?ちょ、うわっ」
着ていたTシャツとタンクトップを上まで捲り上げられて名無しは慌て出す。
「ちょ、いやいや!ほ、ほら匂いとか、普通に考えて凛くんの使ってる香水を私が使えばいい話だし!」 「…それだと意味ねーだろーが」 「なんで!そ、それに明日も仕事だから!」 「んなもんわんも一緒やし」
さらりと返しながらも下着のフックをいとも簡単に外し去られる。
「て、ていうか!私まだご飯食べてない!ほらご飯大事!」 「1食くらい抜いても死なねーらん」 「い、いやそーだけ、どっ……!」
下着の下に手を入れられ、ツ、と肌を撫でられると声が跳ねる。 それ聞き平古場は口角を上げる。
「安心しれー。仕事のくとぅも飯のくとぅも何も考えられなくしてやるからよー」 「…全っ然、安心出来ない……」
そう言いながらも名無しの表情は諦めたように見えた。 ふ、と平古場は笑い、名無しに口付けた。
「ふぁ……あ、お、おはようございます」
翌日。 職場で仕事準備をしていた名無しは、あくびを噛み殺しながら後から出勤してきた先輩に挨拶をする。
「おはようございます…ってあれ、名無しさん香水付けるようになったの?」 「え!?」
ずばりと言い当てられ名無しは動きを停止させる。 …香水を付けてきたというわけではないのだが。
「あ、いや…はははー…」 「別にいいんだけど、強過ぎるのはダメだからね?」 「はい…すいません……」
平古場の思惑通りになり、心の中で恥ずかしさで身悶える名無しであった。
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