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昼下がり。
一人の少女が辺りを窺いつつ、忍術学園の敷地内を忍び歩いている。
彼女は決して曲者でも学園長の命を狙いに来た暗殺者でもない。
列記としたくの一教室の生徒なのだが…何故か今はやたらと周りを気にしながら、くのたま長屋へと向かっていた。
その姿は丸で何者かに追われているいるようだ。
建物の角を曲がる際は十分警戒してから、そして誰かの足音が聞こえたら直ぐ様身を翻し物陰に隠れる。
その繰り返しだった。

今もまた気配を感じて暗がりへと身を潜ませた。
その前を、彼女の存在に全く気付かない様子で井桁模様の装束…一年生が数人、わいわいと騒ぎながら通り過ぎて行く。
まがりなりにも彼女はくの一教室の最上級生だ。
下級生に見つかっていては示しが付かない。
結局、一年生達は誰一人と彼女に気付かず行ってしまった。
それを見届けてから彼女は姿を現した。
しん、と静まった辺りを見渡してから、ひとつ深いため息を吐く。
その表情は浮かない。
…徐に彼女は懐から一枚の紙を出し、広げた。
それを眺め、ぽつりと一言。

「……やばい、よねぇ」

それはテスト答案用紙だった。
既に添削済みで、右隅に赤字で三点、と書かれている。
誰が見ても完璧な落第点である。

「…こんなの見付かったら何されるか…」

彼女は呟いた後ぶるっと身体を震わせた。
どうやら酷い点を誰かから隠すためにこそこそと隠密のように身を潜めているようだ。
くの一教室で渡されたのならばよかったものの、授業で使った用具を倉庫に片付けた後に返却されてしまった。
先程の一年生のようにここは忍たまも当たり前のように行き来する。
つまり、いつ忍たまに遭遇しても可笑しくない。
あの人にもいつ出会すか分かったもんじゃない…と思うと血の気が引く思いだった。

「(と、兎に角、早く長屋に帰らないと)」
「何してんだ?」
「ウワァーッ!!?」

いきなり声を掛けられ、彼女は忍んでいたにも関わらず大声を上げてしまった。
一瞬気を抜いていた所を付かれてしまった。
忍びとしては一瞬が命取りだ、何時でも最後まで気を抜くな。…と日頃から言われているのだが、彼女はどうしても詰めが甘い質らしい。
彼女は反射的に飛び退き、声がする方に顔を向けた。

「って、あ……?も、文次郎…?」

最悪の事を想像していたが、そこに居たのは潮江だった。
彼女の声が耳に響いたのか潮江は険しい顔をしている。

「…どっから出してんだよその声」
「あ、あははぁ、ちょ、ちょっと吃驚して。ご、ごめん」

引き攣った顔のまま謝るが、見付かったのが潮江で良かったと内心ほっとしていた。

「…それより、文次郎は何でここに?」

慌てている事を隠すために、平静を装って聞いた。
心臓はまだ荒ぶっているのだが。

「それは俺が先に聞いただろ。…俺達は実技授業で町に行ったその帰りだ」
「へ、へー。私も倉庫に用具置いてきた帰り、……え?」

そこで言葉を途切らせる。
潮江の言った言葉が何故か引っかかった。

「……俺『達』……?」
「?ああ。今回は同じ組同士、二人一組での授業だったからな」

最後の「な」、は同意を求めるような言い方だった。
そして潮江の視線は彼女を通り越して、その後ろに行っている。

「そうだな」

後ろから聞こえた声に、彼女はひゅっと息を詰まらせた。
息の仕方を忘れてしまったのかと錯覚するくらい、酸素が入って来ない。
「見付かったら何をされるか分からない」、そう思っていた人物がそこに居る。
居るのだが、彼女は振り向くことが出来ない。
全身から嫌な汗が流れ落ちている。

「どうした名無し。具合が悪そうじゃないか」
「い、いやぁ…そんな事は…」
「そうか。ならば良い。…だが、何故文次郎の方しか見ていない?」

名無し、と呼ばれた彼女は再び息を呑む。
その言葉は「こちらを見ろ」という意味だ。
静かな言葉が逆に恐怖を感じる。
名無しは恐る恐る振り返る。

「うッ」

思っていたよりも近く、真後ろに立っていた立花に名無しは声を漏らした。
つい一歩たじろぐ。

「人の顔を見るなりそんな反応をされるとは心外だな」

心外、とは言うものの立花の顔は逆に笑みを浮かべている。
楽しんでいるかのような立花に対し、名無しの顔は引き攣るばかりだ。
立花を前にするといつも蛇に睨まれた蛙かのごとく萎縮してしまう。
それが恋仲の相手だとしても、だ。

「何か疚しい事でもあるのか?」
「え…い、いや…」

立花の目が細められる。
問い詰めるような視線に名無しは目を逸らす。
立花の目は時折名無しの奥底まで見透かしているのではないか、と錯覚するくらい鋭くなる。
それを前にすると隠し事も迂闊に出来なかった。
バレた時の制裁が怖いという事もあるのだが。
しかし今は凄惨な点数が見つかることが怖い。
こんなものが優秀な立花の手に渡ろうものなら、それこそ恐ろしい制裁が……、

「(……って)」

ふと名無しが手元を見る。
何故か手には何もない。
さっきまで握り締めていたはずの答案用紙が、ない。

「(え!?あ、あれ!?)」
「お前が探しているのはこれか?」
「えっ」

ひらり、と立花によって目の前に紙を垂らされる。
隅に赤字で「三点」。
間違いなく、名無しの答案用紙である。
立花に見られたくない点数。
立花に絶対に見つかりたくなかったものが、どういう訳かその立花の手の中にあった。

「うっ、ウワァァー!!?」

名無しは目を剥いて大声を上げた。
頭の中では、目の前で起きている状況が現実と受け止められずにパニックを起こしていた。

「あ、あわわわわわ、な、何で!?ちょっ、えっ、ええぇ!?」

名無しの慌てぶりに立花は鼻で笑う。
点数を目の当たりにした潮江は呆れた声を出す。

「三点って……お前、何年くのたまやってんだよ…」
「真顔で引くの止めて文次郎っ!!」

取りたくて取ったものじゃない!と吠えるように名無しは訴えるが、そうした所で点数が変わるわけでもなく。
その間にも周りに見せびらかされるようにはためく答案用紙。
今は人通りはないものの、いつ、先程のように一年生が通り掛かるか分かったものではない。
下級生にこんな失態を見せつけたくはなかった。

「ちょ、もうそれ止めて!しまって!!というか返して!?」

翻る答案用紙に名無しが手を伸ばす。
けれど立花は器用に避けて、答案用紙を自らの懐へしまい込んだ。

「えぇ!?ちょっと!しまえとは言ったけどそこにじゃない!!」
「返すのは今日の夜だ」
「は……!?」

さらりと答えられ、名無しは動きを止める。

「よ、夜…?」
「ああ。返して欲しいのなら、私の部屋に来い」
「ええぇ!?な、何それ脅迫!?」
「嫌なのか?」
「嫌だよ!?」

名無しははっきり言い切る。
立花に呼ばれて無事だった試しがない。
考査の点が悪ければ日の出までスパルタ授業を受けさせられ、実技で追試となれば翌日に筋肉痛で動けなくなる程の個人特訓をさせられた。
そしてそれに加え、夜、と付けられ呼び出させるとこれはまた別の意味で無事ではなくなる。
別の意味で翌日まで部屋から出してもらえず、別の意味で翌日は筋肉痛に苦しむことになる。
無論、立花の座学や実技の個別指導が行われた後にだが。

「…そうか。ならば仕方がない」

立花があっさり引いたため、名無しは拍子抜けする。
…が、立花は口の端を吊り上げた。

「お前に拒まれた反動で、これを私が『うっかり』廊下に落としてしまったても『うっかり』他言してしまっても、仕方が無い事だな?」
「んなっ」

余りにも態とらしい立花の言葉に、名無しは言葉を詰まらせた。
これがただの脅し文句では無いことはよく分かっている。
もし名無しがこのまま拒むようならば、何の躊躇いもなく、三点用紙を人目の多い食堂の前に落とすだろう。
いや、むしろ壁に貼り付けるのかもしれない。
その様子がありありと浮かび、名無しは血の気がサーっと引いていくのを感じた。
こうなれば名無しにもはや選択肢は無いも同然だった。

「……い、行きます……行かせてもらいます…部屋に」

頭を垂らし、観念した名無しが呟く。

「そうか」

立花は満足気に頷いた。

「だっ、だから、本当に点数口外しないでよ……!?」
「分かっている」

名無しの懇願に、また楽しそうに立花は笑みを浮かべた。
そのまま置いてけぼりだった潮江に「行くぞ」とだけ声をかけ、名無しに背を向けた。
潮江は一瞬、肩を落としている名無しに目を向けたが、何も言わずに立花の後に続いた。

「……はぁぁ……」

残された名無しは深いため息をつき、とぼとぼとした足取りでくのたま長屋へと歩き出したのだった。




「と、言うわけだ。だから夜は部屋を空けてくれ」
「またかよ」

名無しの姿が見えなくなってから、立花はさも同然と言った。
潮江は怒ることもなくただ面倒くさそうに顔を顰めた。
立花がこう言うのは今回が初めてではない。
今までに何度か、いや何度も、立花は名無しを部屋に呼ぶ度に潮江を部屋から追い出す。
それも同室の運命のようなものだ。

「なんだ。文句でもあるのか?」

そう聞く立花の目は鋭い。
有無を言わさない圧力を感じ、流石の潮江もつい「い、いや」と尻込みしてしまう。
潮江の口答えしない様子を見て、立花はふんと鼻で息をついた。

「ならば口出し無用だ。まあ何を言われた所で意見を変えるつもりは無いがな」

そうだろうな、と潮江は内心で諦めていた。
立花に口答えした所でかなう気がしなかった。
その間にも、立花はしまい込んでいた三点用紙を取り出して広げた。

「…文次郎の言う通り、くのたまとして学んでいるとは思えない点数だな」

口振りは呆れているのに対して、立花の声は楽しそうだった。

「今夜は長くなるだろうな」

妖しく吊り上げられた口の端から出た立花の言葉に、潮江は名無しを思い浮かべ同情するのだった。