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「今日の委員会は以上。解散だ!」
「有難う御座いました。」
 とある放課後に視聴覚室で開かれた、臨時の風紀委員会を委員長として開いた真田弦一郎。終わった直後に教室から出て行く彼を、他の委員は呆れて眺めていた。
「おい柳生。真田行っちまったぜー」
 とある男子生徒が、何かを黙々と書いている柳生に声をかける。すると柳生は書きかけのノートを男子生徒に見せた。見せられたノートを見た周りの人が、あぁ〜、と苦笑を漏らす。
「真田君はテニス部の副部長ですから、仕方ありませんよ。」
 柳生が書いていたのは、委員会日誌だった。本来なら委員長である真田が書くべきものなのだが、ここ最近は真田の代わりに柳生が書くことが多かった。
「……お疲れさん、柳生。」
「…それにしても、ホントに真田好きだよなー。テニス。」
「委員長なのに部活のユニフォームで来るぐらいだぞ?まぁ真田らしいっちゃそうだけどよ…。」
「同じレギュラーの柳生に日誌を任せるくらい、やっぱやりてーのかな…」
「ま、一刻も早く部活に行きたいのに、委員長だからっつってちゃんと参加するところは、やっぱあいつらしいよなァー。」
「確かに、俺だったら部活の方ぜってー優先するし。」
 他の委員も、真田の性格が分かっているからこそそうやって笑って軽口を言える。それは、真田のまじめな性格が周囲に認められている証拠だった。
 立海大附属中男子テニス部。王者立海の異名をとる程の実力を持つこの部は、部長の三年・幸村精一を始めとした全国大会連覇を目標として日々己を鍛える猛者たちが多いことが大きな特徴だろう。
「幸村、委員会が終わった。」
「お疲れ、真田。グラウンド十五周してからレギュラーメンバーの練習コートに入って練習だよ。」
「ああ。」
 幸村は、ラケットを右手に持ったままグラウンドに向かう真田の背を、苦笑しながら見つめた。
「どうした、幸村。」
 練習を抜けて水分補給をしに来た柳が幸村の横に腰を下ろす。幸村精一・真田弦一郎・柳蓮二の三人は、一年の頃から先輩達を抜いてレギュラーの座に鎮座し続け、今では立海ビッグ3として立海大テニス部を全国連覇に導き続けている実力者。そんな三人は、部活内では一緒にいることが多いのだ。
「いや、もうすぐ全国大会だから、真田の気の入り方が違うのが分かってね。」
「ああ、そう言われれば。…、だが、近々地区内連合学園祭が行われるから、風紀委員の集まりも多くなるんじゃないか?」
「そうなったら、真田は寝る間も惜しんで練習、だろうね。」
「……、弦一郎が寝る時間を約3時間ずらす確率、94,7%。」
「それはもう、ほぼ確定だよ。…蓮二も、真田の体調を見ておいてくれ。」
「ああ。」

 部活が終わると、いつものように柳が校門前で真田を待っていた。
「蓮二、幸村はどうした。」
「病院によって帰るそうだ。」
「そうか。」
「これから委員会が増えるにつれて、弦一郎が身体に無理な練習をし始めるんじゃないかと心配していたよ。」
「無理なことはせん。己を鍛えるための練習をするだけだ。」
「どちらも弦一郎にとっての負荷が大きいのは同じ様なものだが、あまり無茶しないように気をつけろ。」
「無論だ。」
 すぐ下に崖のような川が流れるコンクリート道に差し掛かり、真田の屋敷のような家が見える所まで来たとき、ふと視線を上げた真田の眼が大きく見開かれた。
「……っ!?」
「ん?どうした……、……、あっ!」
 崖際に設置されたガードレールの下をくぐって遊んでいた子供が、石の淵に足をかけてバランスを崩したのだ。
 真田は背負っていたテニスバックを柳に預け、大きく地を蹴ってバランスを崩したその少年に手を伸ばした。少年もその手を掴もうと手を伸ばす。だが、それが逆に重心を危うくさせてしまい、少年の足元が崩れた。
「馬鹿たれっ!」
「弦一郎君はそこにいてっ」
 思わず声を荒げながらも少年の手を追いかけて崖下に飛び込もうとした真田の耳に、透き通るような、冷涼な女の声が聞こえ、それが真田の動きを一瞬止めた。
 次の瞬間、すぐ近くでガードレールを蹴るような音がしたかと思うと、空中で落ち行く少年の手を掴んだ彼女は、そのまま少年を自分の胸に抱えて下に落ちた。
 柳と真田は、近くにあった階段から岸に下り、急いで少年と彼女に駆け寄った。
「……、…大丈夫か?」
 柳がむくりと起き上った少年に声をかける。どうやら、目立った外傷はなさそうだった。だが、柳と真田を見て一拍置いた少年は、次の瞬間泣き出した。それに驚きはしたものの、冷静にその涙の意味を解釈した柳はその子の頭に手を置いた。
「少し驚いただけだろう。……、もう、大丈夫だ……。」
「おい!しっかりしろ!!」
 問題は助けた方の女子だった。彼女の傍らに膝をついて肩をゆするも、一向に反応は無い。ゆっくり肩を支えて彼女の上体を起こした真田は、頭の右側でぬめりを帯びた感触に触れ、血の気が引いた。
「どうやら、頭部からの出血がひどいようだな。早く救急車を呼んだ方がいい。」
 柳がそう言って携帯を取り出す。が、それを止めるように柳の腕に手が掛けられた。
「…だい…、じょうぶ、です……。」
 その手は、彼女のものだった。上半身を支える真田から身を離すように彼女はふらりと立ち上がる。そして、少年に前でしゃがんで、微笑みかけた。
「もう、あんな無茶なことしないでね?」
「…ぐすっ……、うん……、…ぐすっ…。」
「お利口さん。」
 少年の横で膝をつく柳と、その後ろに立つ真田に対し、彼女は苦笑を見せた。
「ごめんね、じゃ、その子、お願いします。」
 それだけ言って足元に放ってあった通学鞄を持ち上げて、彼らに背を向け帰ろうとする彼女。だが、その動きを予測していた真田はその彼女の腕を掴んだ。そばに居た柳に、後は頼む、と言い残すと、強引に彼女の手を引いた。
「えっ、ちょっ……、」
「良いから付いて来い。」
 渋る彼女を連れ、見えていた自分の家に無理やり連れ込んだ真田。見知らぬ家に連れ込まれて慌てる彼女は抗おうと足に力を入れるも、全く歯が立たない。ひかれるがまま来てしまった縁側に腰を下ろすように促されて素直に座った彼女に、そのまま問答無用で真田は頭部の止血を手際よくこなした。
「お前は俺の名前を何で知っていた。」
「……、話しているのが聞こえたからです。正直弦一郎か蓮二か分からなかったから、適当に呼んだだけなので、当たったか分からないけれど…」
「何であんな無茶をした。別にあれくらいの崖、俺にとっては造作もなかった。だからお前がこんな怪我をする必要は少しもなかったはずだ。」
 この質問に、一瞬彼女はためらう表情を見せたが、きちんとはっきり答えを述べた。
「あの男の子、君が大声を出したときに竦んでいたの。…あのまま行くと君が怖くてあの子は逆に危ないかなって、思ったから……。」
「……、」
「なごみくんじゃないか、久しいのぅ」
 真田の言葉を遮るように、突然現れた真田の祖父、弦左衛門がにこにこと縁側で腰を下ろしている彼女の頭にポンポンと手を乗せた。
「弦左衛門おじ様……、一体なぜここに…?」
「うん?ここは儂の息子の家じゃが。ちなみに、なごみくんの隣におる弦一郎は儂の孫じゃ。」
「孫……。」
 突然明らかになったつながりに戸惑いを隠せないでいるなごみ。それは真田も同じことだった。慌てて弦左衛門の前に出て尋ねる。
「ちょっと待ってください、御爺様。彼女は一体…?」
「何じゃ、同じ学校の格好しとるんじゃから、お互いのこと知っとるんじゃろ?」
 そう言われてなごみと真田は互いを見合う。確かに、どちらも立海大附属中学校の制服姿だ。気にしていなかったとはいえ、二人とも全く気付いていなかった。
「おまえ、立海大附属の生徒なのか…?」
「あなたこそ……。」 
 お互いが驚いた表情で見合う。その様子に弦左衛門は驚きながらも愉快そうに笑った。
「何じゃ、同じ学校に通っていたのにお互い知らんとはの。お互い同い年じゃろうに。」
「ってことは、三年なのか……?」
「三‐H」
「……。」
 今真田はA組。知らないのも無理はないかもしれない。が、三年間も一緒にいればどこかで一度は見かけそうなものだ。
「あ、私…、二年の八月に日本に帰ってきて立海に入ったから…。」
「…外国にいたのか。」
「彼女の父親がFBIの捜査官なんじゃよ。そんで、そのオヤジさんが昔から儂と手塚の仲介人じゃった。今はもうどこかの奥地に引っこんだそうじゃが、寿賀和十郎は、元警察のお偉いさんじゃ。……昔は手塚と共によく怒られたもんよ。」
「もう、国一おじ様もゆっくり国光さんと魚釣りを楽しんでいらっしゃるご様子でしたよ。」
 そう言いながら、なごみがふっと柔らかに微笑む。その姿は、“雅やか”という言葉が良く似合うような仕草で、真田の眼を奪った。だが、弦左衛門はその言葉で何かに火をつけたらしい。
「………、手塚ぁ…、次こそは決着をつけてやる!!待っとれ手塚ぁーっ!」
 バタバタッ!!
 嵐のように去っていく弦左衛門を、半ば唖然と見守るなごみ。だが、真田は呆然としている彼女の横顔に眼を奪われていた。
「…美しい……、…な……」
「え?」
「あ…、何でもない!……、い、家まで送ってやるから、ほら。」
 彼女が重そうに持っている黒の通学鞄を彼女の肩から取り上げ、なごみが取り返せないように自分の肩にかける。
「あ…、私の……。」
 取り返そうと手を伸ばすなごみをかわすように持ち上げれば、腕に来る重みに少し驚いた。
「……、これはまた……。…こんな重たい物を持って身体でも壊したらどうするつもりだ?」
「……。」
「あまり無理をするな。お前のようなそんな細い身体でこんなものを持って、折れでもしたらどうする」
「………、怒らなくても…。」
「怒ってはいない。これが俺だ。」
 そう言って彼女を先導するように少し先に歩き出す。
あまり感情を表に出さない真田は、基本的に怒っているようにしか見えない。実際、彼自身も顔に表情を出すことをしない。が、彼女の時々垣間見せる落ち着いた穏やかな表情が、真田の気持ちを妙に高ぶらせた。本当に普通に話しているだけなのに、彼女の仕草のひとつひとつが、真田にはとても美しく、そして印象深く見えたのだ。
「……、……一体、何だ…。」
 真田は、今までにない感情が胸の片隅に芽生えたことを悟った。




mae ato


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