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縺れた思慕の先01


「医者というのも暇だな」
「まだ駆け出しだがな。あと医者が暇なのは良いことなのだよ」
「それはそうだ」

ぱちり、ぱちり、ぱちり。
将棋盤の上で駒が戦い、その左右で二人の男の頭脳が戦っている。音もたてずに赤司は出されていたお茶を飲んでまた駒を進めた。着ている着物の袖が将棋盤につかないように、かつ不格好にならないようにぱちり。若干派手な着物が艶っぽい演出をする。

「……赤司、お前はなにになりたいのだ」
「は?」

全く予期していないことを聞かれて赤司は盤からその左右違う色をした目を目の前の男に向けた。男も漠然としたことを聞いたことを理解しており、もっと分かりやすく言おうと言葉を選んだ。

「この、だから…今の仕事ではなくて他にしたいことがあるだろう」
「そういう話か。いきなりなにを言い出すのかと思えば……。あ、緑間、お茶のおかわりはあるかい?」
「うん?あぁ、」

緑間は駒を進めてから席を立ち、奥へと消える。診療所の裏口、大通りに面した場所よりかは人通りも少ない。赤司の定位置は窓からでも見えない部屋の唯一薄暗いその場所だ。緑間はもっと明るい場所へと言いたいが、赤司がなぜそこに座るのか理解しているからこそ言えずにいる。
盤の上の飛車を手に取り、くるりとひっくり返してぱちんと三つ先のマス目に進めたところで緑間が急須を持って帰ってきた。動いた駒の場所を見て苦味を潰したような顔になったが、赤司はお構いなしに急須を受け取って自分の湯飲みに注ぐ。

「このお茶、美味しいね。どこで買ったんだ?」
「高尾が買ってきたものだから知らないのだよ。また今度聞いててやる」
「ありがとう」

緑間は座り直してじっと考える。こうすればこうなる、ああすればこうなる。こうすればこの窮地を抜けきることができるが、この駒がなければ守りがなくなってしまう。頭の中で何度も考えて一手を投じた。かなりの時間を要してしまっている。

「で?」
「で?」
「はぐらかせたと思うか。お前はなにがしたいんだ」

眼鏡をくいと上げて自分の湯飲みに茶を注いだ。並々注ぐとその中は空っぽになる。飲むと少し苦味が強かったが予期していたことだ。赤司が美味しく飲めるように時間を合わしたのだから、時間を置いてしまえば苦味を出すのは当たり前だ。

「はぐらかすなんてとんでもない」
「どうだか」
「まだ考えてもないことを聞かれてどう答えようか悩んでいたんだ」

ぱちり。一呼吸置いて王手、と凛とした声が響く。あ、と思ったが時すでに遅し、だ。緑間は駒の場所を確認してから深いため息をついて投了だと呟いた。また眼鏡を上げる。勝者になってもさして喜んだ顔をしないのはもう慣れているから、息をするのと同じことだからだ。

「……借金は、とうに返せたと噂で聞いた」
「…」

赤司の駒を片付ける手が止まった。しかしそれも一瞬で、また何事もなかったかのように動きだして、それがどうかしたのかい?と飄々と言ってのける。

「っお前があの場所にいなければならない理由はもうなにもないだろう!なのになぜまだあそこで仕事をしている!!」

男のお前が同じ男に身体を売るあの仕事を、とは言えなかった。
赤司がこの仕事に就いてもう十年以上になる。幼い時に家が傾いて売りに出されたのだ。聡い赤司は門を通り、檻のような格子がはめられている店の前に立つと自分のこれからを安易に予想した。あぁ、男の自分が男に良いようにされるのだな、と。赤司はなにも言わずに働いた。思うことがなかったのだ。嫌とも、辞めたいともなんとも思わなかった。自分の能力の高さは自分が一番知っていて、でも自分の失態ではなく家の都合でこうなったのだからどうすることもできやしない。小さい自分に逃げることができないのも知っていた。ただ働いて借金を返すということしか目標を抱くことを許されていない。

「……緑間は普段声を荒げないから迫力があるね」
「茶化すな」
「はは、すまない」
「お前がこの生活を望んでいるとは思えないのだよ」

自分より劣っている奴等に愛想を振り撒かなければならないときがある。こんな仕事をしているが誰が見ても人より優れている赤司がそれを良しとしているわけはない。

「…この仕事をしていて良かったと思うことも多々あるよ」
「たとえば?」
「思う存分学ぶことができる。この仕事は学もなければいけないからね」

赤司は少し前まで店一番の稼ぎ頭だった。赤司はただの男娼ではない。愛想は最低限しかないが、太夫や花魁のように文学にも芸にも磨きをかけている。囲碁や将棋を指せば負けを知らず、商売の話をすると通ずることを言う。本の話をすれば作者の生涯を知っており、三味線を弾けば満足できる音色を奏でる。出来ない事の方が少ないのではないのか、というほど全てに長けていた。そのため、教養のある客からは大層人気が高かったのだ。

「お前がなににでも長けているということはよく知っている。だからこそ、今の仕事ではなくて違う仕事があるだろう」
「…」
「赤司も言っていたではないか、こんな仕事はするものじゃないと。学ぶこともあると言ったな。それ以上に……傷つけたものもあるだろう」

緑間は言葉を選んだ。選んで言霊にしても、それが適切なものであったとは言えなかった。どの言葉を選んでもそれは赤司をささくれ立たせるものでしかないのは分かっている。
傷をつけたものという言い回しをした。それは目に見える身体であったり(たまに手首に縛ったような痕が残っているときがあった)、目に見えない心であったり(自分より学のない者にそんなことをさせるということに彼の自尊心はどうなっただろう)、いろいろ(周りの目も、冷ややかになるだろう)。こんな仕事をするのであれば、もっと他の仕事に就いた方が正当な評価もしてもらえるし、傷つくこともないのだ。こんな若い年で自分に圧し掛かっていた借金という重荷を返してしまえたのならば、まだまだ未来は明るいはずなのに。
緑間と赤司目が合った。もう一声かけようとしたとき、表口の方から「せんせぇー」と小さい子供の声が聞こえた。言いたかった言葉を喉の奥に引っ込めて返事をしてその場をあとにする。

「先生、あのね、おかあちゃんが風邪をひいちゃったの」
「どういう症状が出ているのだ?」
「咳してて、熱が出てて……関節が痛いって」
「分かった。ちょっと待て………これを飲ませてやりなさい。これを飲ませて二日経っても良くならなかったらまた来るのだよ」
「うん。先生ありがとう!」

ちゃりん、と銭を机の上に置いてすぐに薬を持って走って行った。転ぶなよ、と声をかけるとこちらを見もせずに大丈夫!と大声で返事が返ってきた。
本当に大丈夫かと思いながらも緑間はまた奥の部屋に戻った。

「…逃げられた」

そこには将棋盤と駒の入った枡、そして座布団だけがあった。もうもぬけの殻だ。そろそろ店が開く時間であるからというのもあるだろうが、話の途中で帰られるとは。
緑間はため息をついて将棋盤を片づけるのだった。

(あ、叱ってやるなよと釘をさすのを忘れた)

誰に借金がなくなったという情報を教えて貰ったのかは言わなかったが、赤司も聞かずとも犯人に心当たりがあるからだ。そしてそれはきっと正解だ。赤司のことを知れる人間だなんてごく僅かなのだから。

(……。とりあえず無事を祈ろう)

そして自分は情報を与えて貰っておいてなんだがこのことは忘れよう、と薄情なことを思う緑間であった。


<続>

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