絶対支配 こいこいと手招くと、彼はゆったりと歩いて自分の隣に正座で座り、なんでしょうか、と面倒くさそうに言った。本当なら座主の血統である自分に面倒くさそうに返事なんてするものならば若い衆などが黙っていないだろう。しかし、彼だけはそれが許される。なぜならば、彼は呼ばれる頻度が他の衆より多い。今日ももう両手では数えきれないほど彼の名前を呼んだ。さらに言えば呼ばれる理由もどうでも良いものが多いものだから(言ってしまえば仕事の邪魔になっていることもあるだろう)、他の門徒も笑って受け流すありさまだ。 「今度はなんですか」 「そんな事言わんでくださいよ」 十も年下である彼に敬語(と言えば仰々しい。丁寧な言葉)を使うのはいつもの事。俺の家族全員がそうである。勝呂家は志摩家に敬語であり逆もまた然り。公の場ではそんなこともあらへんけど、いつも基本的にこんな感じ。敬語を使うのは溝があるからでもなんでもない、ただただ相手を敬う相手として考えているから自然にそうなっとるだけ。 「やから、俺なんぞに敬語を使うなと何度も何度も…」 「あーあー、聞こえません」 「ほんっまに…」 自然にそうなってしまうことを理解できない彼はいつも止めろという。まぁ、うちの家族全員そんな言葉右耳から入って左耳から出ていくからなんの意味もないものなのだが。一応努力はする。している。他の門徒に示しがつかないというのは分かっている。 「その仕事いつ終わります?」 「もうすぐに。あと箱に詰めるだけです」 「ならいつもの縁側で待ってますから、来て貰ってええやろか」 「分かりました」 そういうと少し頭を下げて下がる。またなにもなかったかのように仕事を始めた。そんな彼を見て自分も行動しようと重い腰を上げてそこから離れた。饅頭があったのでそれを数個拝借してポット、急須、湯呑み。いそいそとそれを縁側に持って行って座布団を敷けば準備はもうできた。自分の仕事は少し残っているが、書き物だから寝る前にやれば終わる。 「あれ、柔兄なにしてんの」 「ん?おー、ちょっと紅葉見てんねん」 「へー。なぁなぁ坊しらん?」 「知らんなぁ。なんや用か?」 「や、用ってほどでもないねんけど…」 「あんま坊を呼んだらあかんで。忙しいねんから」 「はいはーい」 五男の廉造が坊を探しているのは結構日常茶飯事やったりする。廉造、坊、子猫丸の三人は同じ年に生まれたからいつも一緒におる。なにをするにも一緒やし、達磨さんが坊に「年が同じでいつも一緒におるねんから廉造さまをちゃんと御守りするんやで」と言うてるから余計に同じ時間を過ごす。そんな廉造がひどく羨ましい時期が正直に言えばないとは言い切れない。兄の俺が言うのもなんやけど、子猫丸のように心からこの寺を思っとって、同じく寺を復興させるために頑張る坊に手を貸すようなやつやない。弟は不埒な想いで坊に近づいている。そんなん、もう何年も前から分かっとる事や。それを俺は見て見ぬふりをする。廉造がそれをどう思っとるかなんて知らん。ほんまに俺が知らんと思ってんのか、ほんまは知ってると思ってんのか。興味もない、やって俺には関係のないことやから。 「柔造さま」 申し訳ございませんでした、と焦ったように約束の場所に来た。時間は測っていないが、結構な時間が過ぎた事は体感している。それが悪いとはなんら思わない。その間、本を読む時間に当てれたし、時間を無駄にしていない。 「仕事、大丈夫やったんか」 「はい。一つ箱が古すぎて底抜けしてもて。新しいのに替えておきました」 「他の箱も危なそうやな」 「新しい箱が工面できるだけ今日替えたんで、また箱が届いたら替えておきます」 「頼むわ」 お茶をお淹れします、となにも入っていない湯呑みと急須に手をかけた。坊が淹れた茶を飲みたいと思って持ってくるだけ持ってきて一切手を付けていなかった。 目の前では木々がそろそろと赤に色を変えている。手際よく急須に茶葉を入れて、ポットの湯を湯呑みに入れ、その湯を静かに急須に入れて蓋をする。すると坊は立ち上がってどこかへ行ってしまった。俺はそれを追いかけはしない。坊は一分足らずで帰ってくると確信しとる。俺の前で急須に湯を入れた状態で遠くまで行くようなことは絶対にせんと断言できる。 「その恰好やと寒いでしょう」 坊は羽織りものを掛けてくれた。それをいう坊の方が寒そうなのに、自分の分は持ってきていない。 「ぼ、」 「もうそろそろええ頃合いやろか」 羽織を、と口に出そうとしたがやめた。茶を淹れているのを邪魔したくない。まずは俺の湯呑み、坊の、と交互にいれて、最後の一滴まで出し切ってどうぞ、と差し出された。 「……やっぱり坊の淹れるのが一番やな」 「誰が淹れてもおいしいようにできてます」 「いーや、格別や」 またそんなこと言うて、と笑う坊に満足する。美しい景色と、愛しい人と、このゆったりとした余裕ある時間と。すべてが整ったこの状況を至福と言わずしてなんと呼ぼうか。無言で風景を楽しみ、それから少し他愛のない話を進める。学校では今何をしているのだとかこういうのが楽しいんだとか、坊が感じていることを俺に全部言わせる。坊のすべてが知りたいなんて思う。一つ一つ思い出して感じるがままに喋る坊は上品で、綺麗だと素直に思う。それから徐々に寺の事に話が移り、その時坊は一番輝く。寺がほんまに好きなんやなぁ、なんて。心があたたかくなる。 ふと目線を逸らすとそんな幸せを見る一つの影がいることに気付いた。 「坊、」 「うん?」 坊はまだその影に気付いていない。 「坊は誰のもんですか」 「…」 「答えてください」 時々、俺が定期的に質問する内容。いつどこでなにをしていても、その質問をしても答えがぶれることなんて一度もなかった。坊は顔色一つ変えずにいつもさらりと答えを出す。 「柔造さまのものです」 「すべて?」 「はい。すべて。からだも、こころも、すべて。好きに使ってくれてええんです」 影が蹲る。それに俺は心で嘲笑ってやった。なんなら、この時の坊の顔も見せてやりたいわ。この、なにも悪いことは思っていない無垢なお顔。俺のすべてを信じ切っているこのお顔を。俺がしろと言うならば、この方はきっと人に害を与えること以外はやりきるやろう。お優しい方やから人を傷つけることは苦手やけど、それ以外の事であれば何でも応えてくれる。紛れもない俺のために。 こちらへ、と言うと坊はすぐに俺の傍に来る。唇を少し合わせると目は伏せる。舌を入れ込むと眉間のしわが深くなるが、俺を振り払おうとかそういうことは一切ない。必死に答えるように舌を動かしてくるのだ。 「っ…ん、」 切れ切れに苦しいことを伝えようとする姿は愛しい以外の他ならない。影はいつの間にか消え去っていた。ああ、また大人げないことをしてもたなぁ、と思いつつゆっくりと坊から唇を離した。 「いきなりすんません」 「いえ……どうかしました?」 「ちょっと、心に靄がかかったみたいになってたんですわ。やけど、坊のキスもろたら晴れました」 「ふは、なんやそれ」 坊のが寒そうやと自分に持ってきてくれた羽織を坊にかける。最初は断っていたが、饅頭も食べよかと話をすぐに逸らすと、饅頭と合わせてありがとうございますと小さく礼を言っていた。悪いけど、この時間を誰かに奪われるなんてことだけは絶対にさせへんわ。 この寺を俺が引き継ぐと分かった時点で、坊は俺のもんになった。それは自然の流れやろう?俺の血を守るために坊は命を懸ける。そう、俺を守るためにすべてのものを捨てて俺に仕え、身も心も俺に捧げる。きっとそれは「永遠に」という言葉が使えるほどの時間。その時間を坊は俺に捧げ、自ら縛られる。 愛らしいやろう?可愛らしいやろう?やけど、それは全部俺のもんやねん。兄ちゃん、これはどうしても譲られへんねんなぁ。ごめんなぁ、他にいろんな頼みごとがあるなら可愛い弟のためにいくらでも聞いてやれるねんけど、坊だけは手放せれんわ。 影で廉造、お前が泣いとったとしても、な。 <了> |