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サボさんが出ていってからそろそろ1時間経とうとしている。

じーっと向けられる視線が非常に痛い。当然だ。食べ終えてから随分と経つのに、未だに席を立とうとしないのだ。「なんで出ていかないんだ?」とでも言うように向けられる店員さんの視線にそろそろ耐えきれそうにない。
椅子を引いてゆっくりと立ち上がると、「ありがとうございました」とやけにいい笑顔の店員さんに出口へと案内される。ここで待っているように言われているけれど、仕方ない。店の前で待っていれば問題ないだろう。
「ごちそうさまでした」と一言店員さんに声をかけカランカランと扉についたベルを鳴らして外へ出れば、からっと晴れた空から注がれる日差しに目を細める。広がる街並みを改めて見渡せば、日本とはかけ離れたそれに、深い息を吐き出す。


“俺はお前が、異界の巫女なんじゃねえかと思ってる”


そんなのありえない。私には、この世界の理を覆す力なんてものあるはずない。けれど、サボさんの言う伝説の中では、異海の巫女は別の世界から来た人間のことらしい。つまり、私が異海の巫女ではないとしても、この世界の“伝説”上では、別の世界が存在するということ。そして、おそらく私はその“別の世界”からこの世界へ来てしまったのだ。

そうでなければ、こんなありえないことばかりが起きる世界の説明がつかない。

店の入口の少し脇に置かれたベンチに腰掛ける。深い深いため息とともに、涙まで出てきそうだ。別の世界、だなんて、そんなの一体どうやって帰れというのだ。来た方法も分からなければ、まして帰る方法なんてものがあるのかさえ分からない。


“海軍じゃなくて、俺たちと一緒に来て欲しい”


サボさんは、私が別の世界から来たことを信じてくれた。そのうえで、一緒に来ないかと誘ってくれたのだ。それはとても有難い。けれど、サボさんたちは一体なんの“仕事”をしているのだろう。私を誘うことで、何かメリットがあるのだろうか。
優しく笑うサボさんと、コアラさんの顔を思い浮かべ、そっと目を伏せたその時。


「なんだ…てめえ1人か、女あ…」

『え……』


ガンッとまるで鈍器で殴られたような衝撃が後頭部に走る。いや、“まるで”じゃない。おそらく今、私は、生まれて初めて“殴られる”と言う経験をしたのだ。
意識が遠のいていく。薄らぐ視界に最後に映ったのは、下卑た笑みを浮かべた男の顔だった。





***





ゆらり、ゆらりと身体に伝わる不規則な揺れ。やけに重たい瞼をゆっくりと開くと、まず目に入ったのは古い木目だった。ここは、どこだ。怠さを感じる身体を起こすと、ずきりと後頭部に走った痛みに顔をゆがめる。そうだ、確か、あの時頭を強く殴られて。
意識を失う時に見た男の顔を思い出し、ぞわりと身体中から血の気が引く。あいつは、あの時サボさんから逃げたやつだった。つまり、“人攫い”だ。カタカタと情けなく震える唇。逃げなければならないと頭では分かっているのに、立ち上がろうとする足に上手く力が入らない。


「…おっと…目が覚めたようだなあ…」

『っひっ……!』

「ひひひっ…いいねえ、そういう怯えた表情は堪んねえなあ、おい……」


震える身体を抱き締めるように縮こまった時、きいっと音を立てて開かれた扉。そこから顔を出したのは、愉しそうに笑うあの時の男だった。やっぱり。私は、こいつに、攫われたのか。
見下ろしてくる瞳が愉快だとばかりに細まる。その視線から逃げるように目を瞑れば、それを許さないとばかりに、男の手に髪の毛を捕まれる。


『いっ……!!』

「おうおう、泣いてんのか??泣けばまたあの、ナイト気取りの馬鹿が助けに来るって思ってんのか?ひっっひっ、けど残念だが、ここは俺達の海賊船で、海の上だ。あの島はとっくに見えなくなってるんだぜ」

『そ、んな……』


海賊船。この人は、海賊で、ここは、海の上。
サボさん、と届かない声で彼の名前を呟こうとした瞬間、愉しそうに弧を描いていた唇から笑みが消える。憎たらしいとばかりにギリギリと奥歯を噛み締めた男に目を見開いたその瞬間、ドンッと床に打ち付けられた身体。衝撃にひゅっと息を詰まらせているのもつかの間、男の足が勢いよくお腹を蹴りつけてきた。


『か、はっ……!!』

「ムカつくムカつくムカつくぜ…!!あの男!!せっかく殺してやろうと思ったのによ!!!!!」


「死ね死ね死ね!!」とまるで呪いのように吐き出される言葉とともに降ってくる痛み。
視界が、ぐわんぐわんと揺れている。口の中に広がる鉄の味と、全身に響く痛みに声さえ、出ない。

なんで、どうして、こんなめに。
私は、ただの女子大生だったのに。
平和な、日本という国で暮らして、当たり前の“日常”を過ごしていただけなのに。
それなのに、どうして。

木目に、涙の染みができる。
しかし、そんなもの気にも止めていないであろう男は、再び私の髪を掴むと、荒い呼吸を繰り返しながら、懐からナイフを取り出す。


「…ああ、やっぱ気分晴れねえ…。腹いせにあんたを売り飛ばしてやろうと思ってたんだがよお…そんなんじゃ、俺の気分は晴れねえよ…」

「なあ、やっぱ、死んでくれ」

『ひっ……い、いや……やめっ……』


ナイフの切っ先がゆっくりと喉元に近づいてくる。死にたくない。死にたくない。こんな訳の分からない場所で、死にたくなんて、ない。ボロボロと零れる涙に男の目がまた愉しそうに細まる。くくく、と喉を鳴らして笑った男が、ナイフを振りあげたその時、


ドオオオオオオオオオオンッッッッッ!!!!!


「っなんだ!?」

『っいっ…!!』


大きな音ともに揺れた部屋。衝撃で男の手から弾き飛ばされた身体は、壁へと打ち付けられ、口の中に溜まっていた血を吐き出してしまう。
何事かと目を釣りあげていた男は、「海賊船だ!!うちとれ!!!」という声を耳にすると、チッと1つ舌打ちを零して、部屋の扉へと手をかける。


「命拾いしたな。まあ、雑魚海賊どもを蹴散らしたあとで、またたっぷり可愛がってやるよ」


ニヤリと向けられた笑みに再び震える身体。打ち付けられた衝撃と蹴られた勢いで痣と切り傷だらけになったそれを抱き締め小さく小さくなってその場に横たわる。

痛みの、せいか意識がはっきりしない。視界が、掠れていく。

死ぬのか。こんなところで、死んじゃうのかな。
まだ、死にたくないのに。もう一度、家族に、友達に会いたいのに。

なんで、私は、


『こんな世界に、いるんだろう、』


呟いた言葉ともに失った意識。
閉じた瞳から零れた涙は、木目の中へ虚しく消えていった。
プロローグ 5

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