十五話
『七砂ちゃん、まだ長屋に行ってないといいんだけど…!』
「とにかく急ぎましょうっ!」
慣れない草履が煩わしい。着物が乱れることも気にせず、必死に走って七砂ちゃんの姿を探していると、生垣(いけがき)に挟まれた暗い道の向こうに人影があることに気づく。
「っ七砂さん!」
アオイちゃんの叫び声に人影が揺れる。ゆっくりとこちらを振り返ったのは間違いなく七砂ちゃんで、ほっと安心したように息を吐いたアオイちゃんと共に七砂ちゃんに駆け寄ろうとした時。
ふと感じた違和感。
何がと言われるとよく分からない。けれど、目の前に立つ彼女に、七砂ちゃんの姿に、どうにも違和感を覚えて仕方ない。なんだろう。何が気になるんだろう。
七砂ちゃんで間違いないのに、何かが違う。一体何がおかしいのだろうかと目を細めたその時、暗闇の中でやけに映える赤い着物に気づき、ハッと目を見開いた。
違う。七砂ちゃんが着ていたのは、水色の着物だ。
『アオイちゃん!だめ!!!』
「っえ?」
アオイちゃんの腕を掴んで引き止める。目を丸くさせるアオイちゃんをそのまま引いて下がらせると、目の前に立つ“七砂ちゃん”の瞳がぎろりと恨みがましそうにこちらを向いた。
「女……貴様ァ……!なぜ分かった……!!!」
『……っ』
「ひっ………!」
メキメキと何かを裂くような音がする。ボロボロに崩れた皮膚が地面に落ちていくと、気味悪く光る黄色の目が現れ、“七砂ちゃん”だったソレの身体はみるみる大きくなっていく。
間違いない。こいつが、七砂ちゃんのお兄さんを殺した、鬼だ。
震える唇を噛み締め、アオイちゃんの腕を握る手に力を込める。逃げなければと分かっているのに、足が震えて立っているのもやっとだ。せめてアオイちゃんだけでも、と彼女に声を掛けようとすれば、普段の気丈な様からは想像出来ないほど震えている彼女に目を見開いてしまう。
そうだった。アオイちゃんは、鬼が恐ろしくて剣を握れなくなったのだった。崩れる様に地面に膝をついたアオイちゃんを支える。涙を浮かべ、浅く短い呼吸を繰り返す小さな身体を隠すように鬼の前へ。
「なんだなんだぁ?先ずは己から食えってか?ん?」
『っ』
長い舌を舐めずる鬼が、一歩、また一歩と近づいてくる。ひっ、と言うアオイちゃんの悲鳴が聞こえて、彼女を守るように腕の中に抱え込む。
大丈夫。私なら、大丈夫なはずだ。しのぶちゃんが言っていた。私の血は鬼には“毒”にもなり得ると。だから。
恐怖で唇を震わせながら鬼を見上げる。「名前、さん、」と力なく私を呼ぶ声に応えるように腕に力を込めたその時、
“音の呼吸 壱ノ型”
「轟(とどろき)!!!!」
「なっ!」
ドオオォォン!!と激しい爆発音と共に鬼の身体が吹き飛ばされる。何が起きたのかと目を白黒させていると、舞う砂埃の中に頼もしい背中が現れた。
『う、ずい、さん………』
「ったく。この小娘だけじゃなく、テメェらまで出てきてんのか!」
そう言って呆れたように深いため息を零した宇髄さんの肩には、七砂ちゃんが担がれている。どうやら気を失っているようだ。やはり彼女は、長屋へと向かっていたらしい。「コイツが邪魔しなきゃ、一発で仕留めてたのによ」と面倒そうに顔を顰めながら、七砂ちゃんを私に預けた宇髄さんは、再び鬼に向き合うと、両手に持った大きな双刀を鬼に向けて突き出した。
「今度こそ派手に仕留めてやる。覚悟しな、糞鬼」
「ひぎっ………!くそっ…!くそぅ……!!その小娘たちを食ろうておれば、更に力を蓄えられたのに……!!」
「そうか、そりゃ、」
ザシュ。と何かを切り裂く音がした。
「残念だったな」
いつの間にか頭を失った鬼の身体が壊れた人形のように地面に倒れ伏す。まさに一瞬だった。宇髄さんが鬼の首を切る所を見ることさえ出来なかった。
ポカーンと呆けた顔で固まっていると、「う、」と呻く声を漏らした七砂ちゃんがゆっくりと瞼を持ち上げた。
「っ!!お、鬼は!?兄ちゃんの仇は……!?」
「もう居ねえよ」
「え………」
ボロボロになって崩れていく鬼の身体に七砂ちゃんの唇が震える。悔しそうに顔を歪めて、握った拳を地面に叩きつける七砂ちゃんに慌ててその手を掴もうとすると、それよりも早く宇髄さんが彼女の拳を受け止め、やめろと言うように七砂ちゃんの腕を掴みあげた。
「っなんでっ……!なんであんたが殺るんだよ!!あたいが、あたいが殺さなきゃならなかったのに!なんだっ……!」
「……舐めるなよクソガキ。お前のような童に鬼が殺せるわけねえだろう。鬼との間に割って入ってきやがって…おかげで一度鬼を仕留め損ねた。そのせいで今度はこいつらが食われるとこだったんだぞ」
「っ………でも、それでもっ……!兄ちゃんの仇は、あたいが、」
「っざけんな!!!てめえの命はその兄貴に守られたもんだろうが!!!!」
「っ!」
ビリビリと周りの空気が揺れる。宇髄さんの叫びに、言葉を失った七砂ちゃんは、ポロりと右目から涙を零した。
「兄貴に守ってもらったもんを粗末に扱ってんじゃねえ!!無謀なことさせる為にテメェ庇って死んだんじゃねえだろうが!!!お前はっ!兄貴の分まで生きる義務があるんだぞ!!」
「っふっ………っ……うっ………」
心まで揺さぶるような声に七砂ちゃんの瞳から次々に涙が落ちていく。アオイちゃんと二人、そんな彼女の背を撫でると、はあっとまたため息を吐いた宇髄さんは両手に持っていた刀をくるりと回して背中へ。
「おら、蝶屋敷まで送ってってやるから行くぞ」と顎をしゃくって歩くように支持する宇髄さんに、「行きましょう、七砂さん」とアオイちゃんが七砂ちゃんの肩を支えて立ち上がる。自分も立ち上がらねばと足に力を込めようとしたのだけれど、鬼がいなくなった安心感のせいか、足腰に上手く力が入らない。なるほど、これが腰が抜けたということか。
もう一度立ち上がろうとした時、「おい、」と目の前に差し出された手。まるで昼間助けて貰った時のような光景に驚きつつ、有難くその手に捕まらせて貰うと、力が入らないのが嘘のように身体が一気に引き起こされた。
『あ……ありがとうございます、』
「やっぱりお転婆だな」
ふっと笑みを零した宇髄さんが歩き出す。その横に並ぶように自分も足を動かすと、前を歩く七砂ちゃんとアオイちゃんの姿が目に入った。時折聞こえくる嗚咽は七砂ちゃんのものだ。涙を流しながら歩き続ける七砂ちゃんに、アオイちゃんが何か声を掛けている。
『………宇髄さん、』
「あ?なんだ?」
『……私、やっぱり宇髄さんの手は人を守る手だと思います』
宇髄さんの足が止まった。合わせて自分も足を止めると、高い位置にある宇髄さんの顔を見上げる。
『だって、七砂ちゃんにあんな風に命の大事さを伝えれる人が、人殺しの手を持っているなんて思えません。それに、また助けてもらった。昼間のあれは偶然だったかもしれないけど……昼間も今も、私は宇髄さんに助けられました。だから、私にとって、宇髄さんの手は守ってくれる優しい手です』
ふわりと笑んだ私に、唐紅色の瞳が僅かに見開く。「行きましょうか」とまた歩き出そうとすると、待て、と言うように伸びてきた手に腕を捕まれ足が止まる。
「……偶然じゃねえよ」
『え?』
「柱がそう何度も別の柱の屋敷近くを彷徨いてるわけねえだろ。昨日の今日だぞ」
『じゃあ、どうして……?』
「……お前に会いに行こうとしてたんだよ」
私に?キョトンとした顔で宇髄さんを見上げれば、何やら罰が悪そうに頬をかく宇髄さん。「なんで私に?」と更に首を傾げれば、小さく息をついた後、宇髄さんが再び歩き出したものだから、腕を掴まれている私も自然と歩くことに。
「………昨日は、情けねえ言い草して、地味に逃げちまったからな」
昨日。そう言われて思い出すのは、縁側で話したあの時のことだ。「悪かったな」と謝る彼に慌てて首を振って「私こそ!!!」と少し声を大きくすれば、何かあったのかと顔を振り向かせたアオイちゃんに慌てて何でもないと手を振ってみせた。
「いいや。苗字は謝る必要なんかねえ。………あの時俺は、情けねえことに、なんて返すのが正解なのか分からなかったんだ」
『正解…ですか?』
「“守ってくれる手”だなんて初めて言われた。忍びとして生きて居た時はもちろん、鬼殺隊に入ってからもそんな風に自分の手を見たことがなかった。だから、そう言ってくれる奴に、苗字に出会って、どう返したらいいのか分からなかったんだ」
腕を掴む手が強くなる。反対の手のひらを広げて視線を落とす宇髄さんの瞳はどこか寂しげで。でも、その手を拳に変えた瞬間、宇髄さんの顔に小さな笑みが浮かんだ。
「多分この先、俺は俺のことをそんなお綺麗な目で見ることは出来ない。でも、いや、だからこそ。自分じゃない誰かがそんな風に思ってくれることは幸せな事なんだと思った。
そんで、会いに行こうとしてた。お前に会って、“ありがとう”と伝えようと思ったんだ」
「まさかぶん殴られそうになってるとは思わなかったけどな」と笑う宇髄さんに少し顔が赤くなる。「すみません…」と小声で謝る私に「だから謝るなっつってんだろ?」と仕方なさそうな微笑みが返ってくる。
「……苗字よ、お前はそのままで居てくれよ」
『?そのまま、ですか?』
「ああ。じゃじゃ馬でもいい。突っ走ったっていい。それでもいいから……お前は、お前のまま“濁らない”なままでいてくれ」
濁らないまま?どういう意味だろうか??
瞬きを繰り返す私を他所に、歩く速度を早めた宇髄さん。その右手は変わらず私の左腕を掴んでいて、大股で歩く彼に私は早足になってしまう。
「ちょ、早いです、宇髄さん!」と声を掛けたものの、楽しそうに笑う彼は更にスピードを早めるばかり。そんな私たちを「何してるんですか?」と呆れたように見つめるアオイちゃんが居て、結局蝶屋敷に着いた時には、全力疾走した後のようにゼェゼェと荒々しい呼吸を繰り返すのだった。
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