岩泉が会いに来る
高3のとき、初めて“彼女”ができた。
それまでバレーしかしてこなかった俺の初めての恋人は引退するまでの間、ずっと俺を支えてくれた。
“名前ちゃんは岩ちゃんにはもったいないよね”
及川にそんなことを言われたとき一応殴ってはみたものの、確かにその通りだと思った。
だからつい、「本当に俺なんかでいいのか?」なんて女々しいことを聞いてしまったこともある。
俺の問いかけに名前は何が面白いのか、クスクスと小さく笑った。
“一でも、そんなこと気にするんだね”
“…茶化すなよ。真面目に聞いてんだぞ?”
“一がいいから、付き合ってるんだよ?一が嫌だって言うまで、別れてあげないから”
“そりゃこっちの台詞だろ”
「じゃあ一は、私の最初で最後の彼氏だね」そう嬉しそうに笑う名前に、俺も思わず頷いたんだっけか。
ぼんやりと高校時代の記憶に想いを馳せていると、「ここな」目の前を歩いていた人物がふいに足を止めた。
「この部屋で待ってるぞ」
「…おう、ありがとな。黒尾」
「礼ならちゃんと会えてから受け取るよ」
ヒラヒラと手をふると歩いて行ってしまう使者(ツナグ)である黒尾。
それを見送ってから小さく息をはいて、やけに冷たく感じたドアノブを回した。
「…名前、」
『…一……』
中には名前がいた。
死んだはずの名前が。
「久しぶりかな?」なんて首を傾げて笑う名前に手を伸ばして有無を言わせずに抱き締めると、それに応えてくれるように背中に手が回された。
『…ありがとね、一。ここまで会いに来てくれて』
「俺がしたくてしたことだ。別に礼を言われるようなことじゃねえよ」
『ううん、“会いに来ない”って選択だってできたのに、一は会いに来てくれた。だから言わせて』
「ありがとう」ともう一度言って微笑んだ名前に目頭が熱くなる。
会いに来て、良かった。
壊れないように強く強く抱き締めると、「痛いよ、一」名前は嬉しそうに笑んだ。
『…ねえ一、高校の時に言ったの覚えてる?“一は、私の最初で最後の彼氏だね”って」
「…忘れるわけねえだろ。お前とのことなら何だって覚えてる」
『…嬉しいこと言ってくれるなあ…。…本当に、一が最初で最後の彼氏になったけど、それで良かったって私、思ってる』
穏やかに笑いながらそんなことを言ってくれる名前に自分の頬が緩むのが分かる。
嬉しいこと言ってんのはどっちだ。
言葉の代わりに綺麗な黒髪を撫でると名前は照れたように微笑んだあと、ソッ目を伏せた。
『…でもね、一。…一は、私を“最後”にしちゃダメだよ』
「っなに……なに言ってんだよ!!」
カッと目を見開いて名前の細い肩を掴んで目を合わせると、大きな瞳が悲しげにユラユラと揺れている。
そんな顔するのになんでんなこと言うんだよ。
情けない声が出てしまいそうで、聞きたいことも聞けずにいると、震えていた手に小さな手が重ねられた。
『一が好きだよ。だからこそ、一には幸せになって欲しい』
「っお前のことを忘れて、幸せになれるわけ…『違うよ一』っ」
『私は…一に、忘れて欲しいわけじゃない』
泣きそうになりながら、名前は真っ直ぐに俺を見てきた。
『忘れて欲しいんじゃなくて…思い出にして欲しいの』
「っ」
『いいことだけじゃない、ケンカだってしたし、お互い下らない意地張って、すれ違ったこともあった。でも…それも全部覚えてて欲しいの』
「ワガママ言ってごめんね」と笑いながら、耐えきれずに涙を流す名前。
なんで、どうしてそんなこと言うんだよ。俺はずっとお前のこと覚えてるよ。俺が好きなのはずっとお前だけだよ。
言いたいことは山ほどあんのにどれも上手く喉を通ってくれない。
何も言えないのが悔しくてつい手に力を入れると、爪が手のひらに食い込んだ。
優しさが痛いってこういうときに言うのかもな。
名前の優しさが酷く心臓に突き刺さる。
『…一の、優しい所が好きだよ、カッコいい所も飾らない真っ直ぐな所も好き。全部全部大好き。だけど私は…一と、幸せになれなかった』
「っ…」
『だからね一、一には私の分まで幸せになってほしい』
柔らかく笑うこの笑顔が好きだった。
「最後なのに泣いちゃってごめんね」なんて謝る必要ない。
俺だって泣いちまってるんだから。
細くて、俺が力を入れれば折れちまいそうな名前を抱き締めると小さな肩が悲しそうに揺れた。
ごめんね、ごめんね。
でもありがとう、ありがとう一。
ごめんねとありがとうを繰り返す名前。
何と言ったらいいのだろうか。
“最後”に、コイツに何をしてやれるだろうか。
涙を流し続ける名前の顔をあげさせると、潤んだ瞳に情けない自分が映った。
「…安心しろ。ちゃんと、お前の分まで幸せになってやる」
『っやっぱり…一は最高だね』
最後に見た名前の笑顔は、今まで一番綺麗だった。
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