始まり
ラクサスの色恋沙汰など聞いたことがなかった。もちろん、ギルド内でそんな話題になるはずもないのだろうけど。だから、運悪く目にしてしまった事実は、ナツにとっては衝撃が大きかったのだ。
その日は、運が悪かったのかもしれない。依頼を受けたナツは依頼者の元に向かったものの依頼をキャンセルされた。仕事は魔物の討伐だったのだが、他のギルドにも依頼をしていたらしく、ナツが引き受けたときにはすでに依頼は達成されていた。
連絡と行き違いになったのだろう。依頼主からは謝罪として、ナツが泊まる予定だったホテルよりもランクの高い場所を用意してくれた。
「ハッピーの奴、どこに行ったんだ?」
この街は市場も盛んになっていて、そこらへんでハッピーとはぐれてしまったのだ。捜しているうちに日が暮れてしまった。
ナツの嗅覚も、市場の食物の匂いがあちこちで充満していてハッピーの匂いを嗅ぎ取れない。
「おーい、ハッピー……あ?この匂い」
風にのって知った匂いを嗅ぎ取った。微かに感じるそれを追って街外れまでて、建物の影に人の気配を感じてそちらへと視線を向ける。
「ラクサ……」
ナツは声を詰まらせた。
そこにあった人影は二つ。一つは男で、妖精の尻尾の誰もが知るラクサス。そしてもう一人は女性だった。まるで覚えのない匂いは香水が強く、鼻のいいナツは思わずむせそうになるほどだ。
石のように硬直するナツの目には、体を密着させているラクサスと見知らぬ女性。女性が顔をラクサスへと寄せるのを見ているうちに、胸辺りがじわりと毒でも染み入るかのように気持ちが悪くなっていく。
無意識に己の胸を押さえているとラクサスと目が合い、胸がどきりと鳴る。蛇にでも睨まれたようにラクサスから目をそらせないナツ。そんなナツに見せ付けるように、ラクサスは女性の唇に貪るような口づけを交わした。
気づいた時には、ナツは逃げるように踵を返していた。
ナツには珍しく俯いたまま足を進める。別に目的など決めていない。ただあの場所から少しでも離れた場所に行きたかったのだ。
「あ?何だ、これ」
気づくと頬を伝わる雫。全く自覚もなく、瞳からこぼれた涙だった。
何故涙が出るのか分からない。何度拭っても涙は止まることがない。
「ちくしょー、止まれ!」
「あれ?ナツ」
名を呼ばれて顔を上げるとロキの姿があった。日も落ちているというのに相変わらずサングラスは装着されている。
「ナツも仕事、……何かあったの?」
歩み寄るロキ、ナツが泣いている事に気づいて眉をひそめた。仲間の姿に気持ちが緩んだのかもしれない、ナツの瞳から零れる涙が激しくなる。
「な、ナツ!?」
女性の扱いには慣れていても、男は別だ。対応に戸惑いながらも、ロキはそっとナツを抱きしめてやった。鼻をくすぐってくる桜色の頭を、ロキの手があやすように撫でる。
腕の中ではいつもとは想像も付かないほどに大人しいナツがいる。ロキにはそれが不思議でたまらなかった。いつも騒がしいが代名詞をここまで落ち込ませる事態。きっとただ事ではないのだろう。
「悪い、ロキ。もう大丈夫だ」
「ナツがここまで落ち込むなんて、何があったの?」
落ち着きを取り戻したナツの体を解放してやると、ナツは俯いたまま小さく首を振った。
「分かんねぇ。分かんねぇけど……痛い」
己の胸を掴むナツ。見ていて痛々しい姿だ。いつものナツを知っているからこそ余計にそう感じるのかも知れない。
「ねぇ、ナツ。良ければ僕に話してみない?もしかしたら力になれるかもしれない」
話すことに躊躇しているのか沈黙するナツ。このままではらちが明かないだろう。
ロキがダメ押しで口を開いた。
「僕とナツは同じギルドの仲間じゃない」
仲間という言葉に、ナツはピクリと反応した。
俯いていた顔を上げるナツの瞳が弱々しく見上げてくる。
「話し聞いてくれるか?」
「もちろん」
その後、ロキは少しだけ後悔する事になる。
落ち着ける場所ということで、ナツが宿泊しているホテルへとロキは誘われた。部屋へと入れば、思った以上の設備だった。風呂なども見て回ればまた違いも出るだろうが、今はそれが目的ではない。
「すごいホテルだね」
「依頼主が詫びだって。何か飲むか?」
飲み物も用意されていた。ロキが応える前に、ナツが備え付けの冷蔵庫からワインと自分用のジュースを出してきた。
「ありがとう」
ロキはグラスと共にワインを受け取りながら、ナツへと視線を向ける。
ナツはベッドに腰掛けて缶のジュースを一気飲みしていた。飲み干すと一息ついてロキへと視線を向ける。
「さっきはありがとな。自分でもよく分かんねぇんだ」
いつもの調子に戻ってきたナツは、困ったように頭をがりがりとかいた。その様子にロキは少しばかり安堵して、近くの椅子へと腰掛ける。
「さっき、痛いって胸を押さえていたけど、怪我してるわけじゃないよね?」
「ああ。怪我はしてねぇ」
心的なものだ。ナツにとってショックな出来事があったのだろう。
「ねぇ、僕に会う前に何があったのかな」
「……ラクサスを見かけたんだ」
ラクサス。ロキも妖精の尻尾の魔導士なのだ、知らないわけがない。しかし、それがどう関係しているのか。
首をかしげるロキにナツが続ける。
「知らない女とチューしてた」
ロキは思わずむせそうになった。
ラクサスの浮いた話しなどなかったし、それ以前に興味さえなさそうな男だ。強さにばかり執着して、そういう感情さえないのかとも思ったが、誰も知らないだけだったようだ。
「そ、それ本当?見間違いとかは」
「間違うわけねぇよ。確かにラクサスの匂いだった」
口元をゆがめるナツに、ロキは混乱する頭を整理した。とりあえず、ラクサスの事は置いておこう。
「それで、それ見てたら何か痛いっつーか気持ち悪くなって……」
「……ナツ、ちょっといい?」
思い出して顔を俯かせるナツに、ロキは自分の額に冷や汗が浮かんでいる事に気づいた。何だか足を踏み込んではいけなかった気がする。
話しを止めたロキに、ナツが少し潤んだ瞳で見上げてくる。
「あ、あのね、痛いってどんな感じ?」
「こう、心臓んとこぎゅって締めつけられてるみたいな……」
「ちょっと待った!」
ロキは頭を抱えた。目の前では何度も話しを止められて不服そうに唇を尖らせるナツの姿。
ロキは深呼吸をしてナツへと視線を戻す。
「ナツ、ちょっと目を閉じてくれるかい?」
「お、おお」
「そうだね……それじゃ、想像してみて。今君の前にはラクサスがいるとしよう。そのラクサスがいきなり君を抱きしめてきた。君の耳元で小さく、好きだと囁いて……」
「ロキッ!!」
まだ途中だと言うのにナツは目を開いて立ち上がった。振動でスプリングのきいたベッドが弾む。ナツの瞳が微かに怒りを含んでいるが、迫力を消すほどにナツの顔は真っ赤になっていた。
「何だよ、今の!ラクサスの事は関係ねぇだろ!!」
憤慨しているナツにロキは肩を落とした。
ナツの反応からして関係なくはない。むしろラクサスが原因だ。これは間違いようがないだろう。
「君は気づいてないけど、」
ロキは途中で口を閉ざした。ナツがラクサスを恋愛対象として見ているというのは分かった。だが言わなければナツは永遠に気づかないのではないだろうか。
「ロキ?」
首をかしげるナツに、ロキは自分の中でどす黒いものが渦巻いていくような気がした。ラクサスを善人と言うには無理がある。そんな人間への恋情に気づかせるべきか。それ以上に、少々面白くない。
「おい、ロキ?」
ナツが顔を覗き込んできた事で、ロキは我に返った。今自分が考えてしまった事を頭を振って消し去ると、小さく息を吐いた。
自分は今どうにかしてしまっていたのだ、そう言い聞かせてナツへと視線を向ける。
「きっと嫉妬していたんだね」
「嫉妬?」
訝しむナツの表情にロキは苦笑した。
「そう。君はラクサスが好きなんだ」
「まぁ、仲間だしな。ムカつく奴だけど」
「そうじゃなくて、君はラクサスに恋してるんだよ」
ナツは瞬きを繰り返し、ロキをまじまじ見つめた。こいつ本気で言ってんのかよ、とナツの瞳が語っている。
ロキは想像以上のナツの理解のなさに頭を抱えたくなった。今日だけでどれだけ頭痛を生じただろう。
「言っておくけど冗談とかじゃないよ。恋愛方面に関しては、君よりも僕の方が経験はある。それこそ天と地ほどにね」
それにはナツも何も言い返せなかった。
多勢の女性と付き合いがあるロキのこういう説得はとてもよく効く。
「やっぱりロキはすげぇんだな」
「いや、そうでもないけど」
苦笑いをこぼすロキに、ナツは真剣な目でロキを見上げた。
「ミラが百戦錬磨だって言ってたもんな」
「それ、いい意味じゃないよね」
ミラジェーン自身どういう思いで言ったかは分からないが、この場合良い意味ではないことは確かだろう。ロキの日々の行動からして自業自得だ。
しかしいくらロキに説得力があっても、はいそうですかと納得できるような内容ではない。ナツは腕を組んで唸った。
「俺が、ラクサスを好き……」
顔をしかめて唸るナツに、ロキもどうしたもんかと内心唸っていた。もしこれでナツが自覚しても相手はラクサスだ。上手くいくわけがない。
「なぁ、ロキ。好きって事は告白とかすんのか?」
「んー、人それぞれじゃないかな」
ナツの性格なら猪突猛進で即告白でもしそうなものだ。
どうだろうね?首をかしげるロキにナツは飛び上がるようにベッドから降りた。
「よし、じゃぁ行ってくるか!告白!」
「え、行くの?」
数分前までラクサスが好きだということに納得していない様子だった。行動が早すぎる。いっそ清々しいかもしれないが、後押ししている状態のロキにとっては内心冷や汗ものである。
「様子見た方がいいんじゃない?」
引きとめようとするロキに、ナツは顔をしかめた。
「いいって別に。ちょっと言ってくるだけだから」
ちょっとジュース買いに行ってくる。そんな軽いノリで言われて、ロキは何度目か頭を抱えた。
この手の話しでナツの相手をするのは骨が折れるどころか、頭が割れる。大体ラクサスが真面目にナツに取り合うはずがない。告白などしても物理的に黙らされるだろう。結果は見えている。
「なぁ、ロキ。やっぱり、チューとかすんのか?」
小声で呟くナツにロキは盛大に頭を振った。話しが飛んでいる。告白を通り越している。
「マカオに見せられた本みたいな事もすんのか?」
更にぶっ飛んだ。少し頬を赤らめるナツに、ロキは本の内容を察した。おそらく子供が見るものではないような内容が盛り沢山の本だろう。酔っ払いは何をしでかすか分からない。
「と、とりあえず、落ち着こう。キス以上っていってもナツは経験ないでしょ?」
「何するんだ?」
「ほらね、だから落ち着こう。大体告白してすぐに本番までいくなんてほとんどないから」
「本番?告白は違うのか?」
ロキは言葉を詰まらせた。ナツの知識がどこまであるのか分からない。子供が情報の切れ端だけを頭に詰め込んだ状態なのだろう。つまり、キスは分かる。告白も理解出来ている。しかし体の関係などといったことは本を見せられただけで曖昧なのだ。
これは、きちんと言葉を選ばないとろくな方に転ばない。
「なぁ、どうすればいいのか教えてくれよ。ロキ」
期待するような瞳で見つめられて、ロキはあきらめた様にちょっとした恋愛講座を始める事になったのだった。しかし流れと言うものは恐ろしいもので、恋愛講座を終えたロキは自己嫌悪に陥った。今部屋にはロキのみ。ナツはさっそく実践に赴いてしまったのだ。
「無事に、戻ってきてね」
今はナツが無事帰還する事を望むのみだった。
2010,01,31