不機嫌な彼
暦が九月に変わった日の朝、ナツは常よりも早く目を覚ましていた。用意された服に袖を通し、ベッドに体を預けているハッピーを見下ろす。
「どうだ、ハッピー!」
ハッピーはナツの呼びかけに反応して一度鳴く。それに笑みを浮かべて、ナツは部屋を出た。居間からは食欲を誘う香りが漂ってくる。
ナツは居間へと飛び込んで、朝食の準備をしていたミストガンへと顔を向けた。
「よぉ、ミストガン」
「おはよう、ナツ。よく似合っている」
ミストガンは、ナツの姿に目を細めた。
ナツが身につけているのは、今日から通うフィオーレ学園の女子制服。マカロフの取り計らいで、夏休みが明けた新学期からの編入が決まったのだ。
ナツが己の席に座ろうとした時、ラクサスも居間へと足を踏み入れた。ナツの姿を目にして眉を寄せる。
「お前、躊躇がねぇのか」
すでに女装に抵抗のないナツに、正体を知っているラクサスは半ば呆れていた。女と偽っているのだから拒否権などないのだが。
「服なんてなんでも同じだろ」
全くもって潔い。平然と食事をとりはじめるナツに、尊敬の念さえ抱いてしまう。
ラクサスは無言で席に着いた。食事をとっていると、最後の同居人が姿をあらわせた。ナツと同じ学園の男子制服を身にまとっているグレイだ。
「よぉ、グレイ。今日からよろしくな」
食事を口いっぱいに頬張る姿に、グレイはその場にしゃがみ込んだ。
「ドストライク……!」
拳を握りしめるグレイを視界にいれないように、ラクサスは食事を進める。視線を前へと向ければ、食べかすで口の周りを汚すナツの世話をミストガンがしている。
ナツが来てから、メンバーの新たな一面が露わになってしまった。変貌といってもいい。
「ナツ、弁当を作ったんだ。食べてくれるか?」
「お、サンキュー!」
「口に合うといいんだが」
「ミストガンの飯はうまいから好きだぞ」
ミストガンとナツのやり取りにラクサスは頭を抱えたくなった。
「お前はお袋か……」
ラクサスの呟きは誰にも聞かれる事はなかった。
食事を済ませると、ナツとグレイが立ち上がった。時間を確認して足早に玄関へと向かっていく。
「ナツ、車で送っていこう」
靴を履き終えたナツが、鞄を手に振り返る。
「平気だって、そんなに離れてねぇし」
学園は電車で一駅程度しか距離がない、徒歩でも通える場所にあるのだ。はっきりと断られれば、ミストガンも強制できない。
「何か困ったことがあれば連絡してくれ。グレイ、ナツの事を頼むぞ」
「言われるまでもねぇよ」
玄関の扉を開きながら待っていたグレイが、笑みを浮かべる。出かけの挨拶の言葉をかけて、ナツとグレイが玄関をでた。
ちょうどその時、隣の部屋の扉が開く。音を立てて開くそれに、ナツ達の目が向いた。
「おはよう」
顔を出した人物に、目を見開く。
「イグニール!」
玄関の扉を開いた体勢で顔を覗かせているのは、イグニール。常に降ろしたままの少し眺めの髪は後ろで一つに束ねられている。
ナツは、イグニールへと駆け寄った。
「隣ってイグニールだったのか?」
「ドラマの撮影の間だけだよ」
海外で活動しているイグニールは、マグノリアで滞在中はホテルで過ごすのがほとんどだった。今回はドラマの撮影という例外の為だ。
「そういや、ラクサス達以外のやつと会ったことねぇな」
elementsの宿舎となっているマンション。その一室で暮らし初めて二か月近くになるが、ナツが他の住人を見る事はなかった。
首をひねるナツの疑問に答える声が、ナツの背後からかかる。
「この階のフロアはプロダクションの所有物だからな。私達以外には、過去に一人しか住んだことがない」
振り返ったナツの目には未だエプロンを身に付けたままのミストガン。
ミストガンがイグニールに挨拶の言葉をかけていると、ミストガンとナツの間を割って入るように手が伸びてきた。
「おい、いい加減行こうぜ」
ナツの肩に置いた手の主はグレイ。今は登校前で、時間に余裕があるわけでもない。
ナツは慌てて身を翻した。
「いってくんなー!」
グレイと共に廊下を駆け抜けていくが、自室の前を通ったところで足を止めた。ラクサスまでもが外に出ており、イグニール達を眺めていた。その探る様な目にナツが首をかしげていると、グレイに手を掴まれる。
「お前、遅刻したいのかよ」
「あ、悪い……」
ラクサスに気を取られながらも、ナツはグレイに手を引かれて走りだした。
マンションを飛び出して、大分距離を走ったところで、グレイはナツから手を放した。時間と学園までの距離を見て、間にあうと判断したのだろう。
乱れた呼吸を整えながら、歩みを進める。
「グレイ」
ナツが名を呼べば、常ならすぐに反応を示すグレイ。しかし、今は視線を向けようともしない。
「なぁ、怒ってんのか?」
定められている登校時間までぎりぎりとなってしまった事で、気を悪くしたのか。
グレイはようやくナツへと振り返った。ナツの顔をじっと見つめ、口を開く。
「お前、年上が好きなのか?」
グレイの問いの意図が掴めない。ナツが答えずにいると、グレイは顔をそらしてしまった。
聞き返そうとナツが口を開こうとするが、声を発する前に他の声で止められた。
「ナツ!」
振り返れば、ナツ同様に学園の制服に身を包んでいるルーシィが駆け寄ってきていた。
「おはよう、ナツ」
「よぉ、ルーシィも同じ学校だったんだな」
ルーシィは頷くと、ナツの制服姿をまじまじと見つめた。
「制服似合ってるわよ」
「サンキュー、ミストガンも褒めてくれたんだぜ」
揶揄するような声にも、ナツは気にした様子もなく笑みを浮かべる。その得意げな表情よりも、ルーシィはグレイへと視線を向けた。
ナツがミストガンの名を出した瞬間、グレイの体が反応したように揺れた。垂れさがっている手が、耐えるように拳を握りしめている。
その雰囲気は近寄りがたいものさえあり、ルーシィはナツに耳打ちした。
「ねぇ、グレイどうかしたの?なんか怖いんだけど」
ナツはグレイへと目を向けると、眉を落とした。
「分かんねぇ。怒ってるみてぇなんだけどさ……」
ナツでさえ分からないのなら、ルーシィに理解する事などできるはずがない。ルーシィは、登校を促して、ナツ達と共に学校へと急いだ。
ナツが学園に編入する事は学園中に広まっていた。今話題絶頂で人気も高いのだから当然と言えばそうなのだが。
グレイは学園に着くなり、逃げるように先を行ってしまった。ルーシィは、ナツと共に廊下を歩きながら周囲へと視線を見やる。
「凄いわね」
「さっきから見られてねぇか?」
ナツが鈍感だという事はルーシィも理解している。性別が男なのも加わって自覚が湧かないのもあるのだろうが。
「そりゃ見るわよ。あんた、そこらのアイドルよりも注目されてるんだから」
しかし、注目されればその中には好意的ではないものもある。特に女子の中には面倒な者もいる。
売りだしてばかりの頃を思い出して、ルーシィは顔を歪めた。当時はルーシィもひがんでくる女子に悪意ある言葉をかけられたのだ。
「少し気をつけた方がいいわね」
ナツは悪意といったものに縁がなかったのだろう。疑う事など知らなそうに、首をかしげるナツが眩しく感じ、ルーシィは目を細めた。
「エンジェルかぁ」
ナツが話題になった原因の写真。そこに記されていた名を思い出して、ルーシィは笑みを浮かべる。
一人でくすくす笑い出したルーシィに、ナツは少し身を引いた。
「お前、気持ち悪いな」
「失礼ね!」
ナツを睨みつけたルーシィは、慌てて足を止めた。ナツの割り当てられている教室へとたどり着いたのだ。
編入生であれば担任と共に教室へと入るのが一般的だろうが、ナツが人を集め過ぎていて職員室にとどまれなかった。本鈴の時間も近づいていた為に、ルーシィが案内する事になったのだ。
クラスが別のルーシィが己の教室へと行くのを見送って、ナツは教室に足を踏み入れた。
今最も注目されているとはいえ親しみやすい性格のナツは、すぐにクラスに溶け込んだ。最初は遠巻きに見るだけだったクラスメイトも、一週間も経てばナツを普通の友人のように接していた。
「あんた、凄いわね」
授業間の休憩時間に、遊びに来ていたルーシィ。ナツの前の席を借りて座り、菓子を頬張っているナツを眺める。
ナツが口にしている菓子は、クラスメイトの女子から分けられたものだ。
「ナツー!」
名を呼ばれて、ナツは声のする方へと顔を向けた。男子生徒が教室の入り口のところから声を張り上げており、一番後ろの窓際の席であるナツからは距離がある。
ナツと目が合うと、男子生徒は大きく手を振った。その手から放り投げられたものが曲線を描きながらナツの元へと飛び込んでいく。
「それ、購買のおばちゃんからな!」
うまく受けとったナツは、手の中にあるものに視線を落として笑みを浮かべた。ナツの最近のお気に入りであるパック飲料の苺ミルクだ。
「おー!サンキュー!」
礼を言うナツに応えるように男子生徒は小さく手を振って、去って行ってしまった。
早速とジュースを口にするナツに、ルーシィは呆然とそれを見ていた。ナツが学園に編入してまだ一週間程度だというのに、すでに購買員にも気に入られているようだ。
「顔広すぎ……」
少しだけ心配していたルーシィだったが、それは無駄に終わってしまった。なにもないならそれに越したことはないのだ。
ルーシィと話しをしながら菓子を口にするナツ。その前に一人の女子生徒が立った。
「ナツさん」
女子生徒は、落ち着きがなく視線を彷徨わせながら、手をナツの前に差し出した。その手には手紙。
「お願い!これ、グレイさんに渡して!」
つまりは、ファンレターだ。
「別にいいけど……グレイも同じ学校だろ、自分で渡す方が早いんじゃねぇか?」
ナツが手紙を受取ろうとしたが、その手は掴まれてしまった。女子生徒でも、ルーシィの手でもない。視線を移動させれば、グレイが立っていた。
「何やってんだよ」
「お、グレイ。ちょうどよかった、これ……」
グレイはナツの手を退けると、女子生徒へと目を向けた。
「悪いけど、直接は受け取れねぇんだよ」
グレイの言葉に女子生徒は顔を歪めた。顔を俯かせてしまい、ナツはグレイへと抗議の目を向ける。
「別にいいじゃねぇか、手紙ぐらい」
「ダメに決まってんだろ」
何故だと目で問えば、グレイが溜め息交じりに話しだした。
「あのなぁ、この学園だけでelementsのファンがどれだけいると思ってんだよ」
学園内は芸能人が多く在籍しているが、それ以上に一般の生徒も多い。elementsを支持している者たちも数多くいる、その全てを直接受け取っていたらきりがないのだ。一人から受けとれば、他の者からのものも拒めなくなる。
納得いかないと口を尖らせるナツに、グレイは、それに、と耳元で囁く。
「お前からは絶対受け取らねぇから」
「どういう意味だ?」
きょとんと首をかしげるナツは全く理解している様子などない。
グレイは眉を寄せながら口を開く。
「今日はオフになった。ロキからの伝言だ、伝えたからな」
足早に去っていくグレイは、その事を伝えるために訪れたのだろう。ナツは未だ携帯電話を持っていないから、何かあればメンバーから伝えられるしかない。
グレイを見送って、ナツは難しそうに顔を顰める。
「なんか機嫌悪そうだったわね」
ルーシィの呟きに頷いたナツは、手紙を手にしたまま立ちつくす女子生徒に気付いて顔をあげた。
「悪い、よく分かんねぇけどダメみたいだ」
女子生徒は、落胆しながら教室を出ていった。それを見送ったナツは、ルーシィへと振り返る。
「何で貰っちゃいけねぇんだ?」
「さっきグレイも言ってたでしょ、全部受け取ってたらきりがないのよ。あたしも止められてるもん」
それに、と続ける。
「この学園は、あたしたちみたいな芸能人も普通の学生生活が送れるように色々規則があるのよ。本当はさっきみたいな事もダメなの」
先ほどの女子生徒の行動だ。ファンとしての接触は禁止されている。それ以前に手紙類などは事務所へと送るのが常識なのだ。
「ナツは知らないかもしれないけど、この学園の理事長は事務所の社長たちなのよ。うちの社長もその一人ね」
「じっちゃんもか?!他のやつらは?」
「他の事務所は、青い天馬(ブルーペガサス)とかね。何でもうちの社長とは昔から知り合いらしいわ」
妖精の尻尾以外にも芸能事務所は数多く存在する。その中で青い天馬は社長であるボブとマカロフが旧知の仲という事で、事務所間でも交友関係を築いている。
ルーシィは、思い出したように続ける。
「後、蛇姫の鱗もそうね」
「ラミアスケイルぅ?」
「青い天馬もホストみたいで変わってるけど、蛇姫の鱗はね……あたしは苦手かな。特にあの子」
どこか遠くを見ているルーシィの目には微かに怒りが滲んでいた。以前に蛇姫の鱗の所属タレントと問題でもあったのだろう。
空気を読まないナツには珍しく、問わない方が得策だと感じ取る事が出来た。短く相槌だけうっていると、ルーシィが口を開く。
「そういえば、グレイも……」
メンバーの名前が出てナツが興味を持ったようにルーシィを見つめる。先を促すナツの目につられる様にルーシィは続けた。
「グレイも何かあったみたいね。蛇姫の鱗にもelementsと同じぐらい人気のバンドがあるんだけど、そのリーダーを怖がってるみたいに見えるのよ」
グレイが怯えるという事がナツには信じられなかった。人なのだから苦手なものがあるのは当然だが、何よりそれを他人に悟られるほどに表に出しているのだ。
時間を確認したルーシィが己の教室に戻ろうと立ち上がる。それに、ナツは顔をあげた。
「そのリーダーって誰だ?」
「名前はリオン、リオン・バスティア。確か、年はあたし達より二つ上のはずよ」
ナツは思案げに顔を歪めながら、その名を記憶するように何度もつぶやいた。
2011,06,04
グレイのターン。そして、ナツの世話を甲斐甲斐しくするミストガン。
年齢は、ナツとルーシィが17、グレイが18、ミストガンが20で考えております。