そんな休日
休日の早朝。その日ラクサスは普段よりも早い目覚めで、それが、その日一日の彼の不運の始まりだった。
「ぐ、ぎゃーッッ!!!!」
まるで魔人が抹殺されかけているかのような悲鳴が、寮内に響き渡る。
未だ夢の中にいた者たちも、ほとんどが覚醒せざるをえなかった。それほどまでに酷い声だったのだ。
ちょうど空腹で目が覚めたナツが、その悲鳴の元である調理場の前にたどり着いた時だった。
耳を刺激した悲鳴に、ナツは慌てて扉を開いた。
「なんかすげー声したぞ!?」
悲鳴で支配されていた脳は、視界に入った光景で消されてしまった。いつもと変わらない調理場。ただ、そこには影が一つ。
ナツは大きな目を瞬かせて、その影を見下ろす。
「なにやってんだ?」
ナツの声が静かに落ち、同時に二対の目がナツへと向けられた。
影は二人が重なってできたもので、とてもではないが有り得ないと言いきれてしまう程の意外な組み合わせだった。
幼い瞳には、床に押し倒すようにミラジェーンを組み引くラクサスの姿が、映っている。
「おい、妙な誤解を……」
ラクサスも思春期だ、己の体勢がどう見られるのか分からないわけではない。
表情には出さないが内心慌て、ミラジェーンの上から退こうと腕に力を入れたが、それはミラジェーンの手によって止められた。服の襟を掴まれて引き寄せられたのだ。
間近に迫ったミラジェーンの顔は、にやりと悪魔の様な笑みを浮かべている。
「てめ、」
「ラクサスの、えっち」
ミラジェーンが可愛らしい唇で刻んだ言葉。それは怒りの沸点を簡単にとび超えた。しかし、ラクサスが行動に起こす前に、調理場は一気に騒がしくなる。
「おいおい、ラクサスもそういう年頃か?」
「朝から勘弁してくれよー」
悲鳴に駆け付けた寮生たちが、狭い入り口をふさいでいた。
若干大人に足を踏み入れ始めている者の、ラクサスを見る目は揶揄を含んでいる。今起きている事態の、あらかたの予想がついているのだろう。
「お、お前たちは見るんじゃない!ナツ、お前もだ!」
エルザが、自分より年下のグレイやカナ達を炊事場から遠ざけ、唖然としているナツの視界を遮るように、手で覆った。
ナツは視界を遮られながらも首を傾げる。
「ラクサスとミラ、なにやってんだ?」
子どもの知識では、エルザが慌てる理由も想像がつかないのだ。それに安堵しながらも、エルザは口ごもった。
「二人はだな……プ、プロレスをしているんだ!一番仲が良いからな!」
精一杯考えた上での説明だろうが、飛び過ぎている。どちらにせよラクサスとミラジェーンは特別仲が良いわけではない。むしろ、よくない部類に入るのではないだろうか。
ミラジェーンに解放されたラクサスが、苛立ち気に立ちあがった。
ナツもようやく視界が開かれ、不機嫌を纏っているラクサスを見上げる。
「ラクサス」
名を呼ばれ見下ろしたラクサスの瞳が、微かに見開かれた。
特別ナツが何かしているわけではない。だが、逆にそれは違和感がある。
「ミラと、仲がいいんだな」
静かな声にラクサスはぎくりとした。しかし、ラクサスはすぐに我に返ると、見上げてくるナツへと手を伸ばした。
「ガキがくだんねぇ事言ってんじゃ……」
ナツの頭へと伸ばされた手は、髪に掠めただけで終わった。ナツが避けるように足を後退させたのだ。
調理場に沈黙が下りる。いつもならば、大人しく頭を撫でられているはずだ。むしろ、撫でられるのを待っていると言ってもいい。そんなナツが、ラクサスの手を避けるなど、過去に一度もない事だった。
エルザが心配そうにナツの顔を覗き込むと、ナツは不思議そうに目を瞬かせていた。
「どうした?ナツ」
「わ、分かんねぇ」
ラクサスの手を避けた事は無意識だったのだろう。ラクサスも予想外だったらしく、手を宙に浮かせたままで止まっている。
見上げてきたナツと目が合うと、ラクサスは拳を握りしめた。
「勝手にしろ」
ラクサスが調理場を出ていく。止めようとしたナツだったが、その声が発せられる事はなかった。
「平気か?ナツ」
エルザが心配そうに声をかけてくるが、反応を返す事はない。
ナツは手を己の頭にのせた。先ほどはここにラクサスの手が乗ったはずだったのだ。何故避けてしまったのか分からない。
次第にナツの瞳に涙がたまっていく。
「泣くな、ナツ!」
「泣いてねー!」
ぐすりと鼻をならしながら否定されても説得力がない。そんなナツを見ながら、一人だけ不謹慎にも顔を緩めていた者がいた。
「かわいいなぁ、ナツ」
ミラジェーンの歪んだ性質に、それを見ていた者は呆れたように溜息をついたのだった。
その後すぐにラクサスはマカロフに呼び出され、激怒する声が響き渡った。もちろん、声の主はラクサス。
機嫌を損ねたラクサスが朝食に顔を出すわけもなく、ナツは食事の間終始ラクサスを探して視線を彷徨わせていた。
食事を終え自室へと戻ったナツは、落ち付かずに部屋を出た。常ならばあまり立ち寄らないグレイの部屋の前で足を止める。
部屋の扉を開けて顔を覗かせれば、グレイが机に向かって座っていた。
ナツは、部屋の中に足を踏み入れグレイに近付く。
「なぁ、グレイ」
「うわ!い、いつからいたんだよ!」
どこでも元気で騒がしい。そんなナツが近づいて気付かない事などないから、驚かせるには十分だった。
しょんぼりとしているナツに、グレイは持っていた漫画雑誌を閉じた。
「なんのようだよ」
「あのさ」
ちらりと上目遣いで見つめられ、胸が大きく跳ねる。いつもは見られないナツの表情にグレイの顔が赤くなっていく。
「なななんだよ」
ナツを見ないように視線をそらしながらも、動揺は隠せていなく、どもっている。
ナツはそれに気にした様子もなく、続けた。
「ラクサスとミラって仲いいのか?」
「……はぁ?なんだ、それ」
まるで魔法からとけたようで、一瞬でグレイの顔はしかめられた。先ほどまでの動揺が嘘のように、ナツの顔をじろじろと見る。
「エルザが、ラクサスとミラは一番仲がいいって言ってたんだ」
当人同士は当り前だが、グレイを含めた周囲の者たちも二人の仲が良くない事は分かっている。
グレイが否定の言葉を口にする前に、ナツはじわりと涙を浮かべた。
「ラクサスは、ミラが好きなのかな」
「う、」
いつも元気なナツがしおらしいと調子が狂う。
グレイは上がる心拍数をおさえられず、とっさに手を動かしていた。ナツの震える手を掴む。
「お、男なら、泣くんじゃねーよ」
グレイの手が触れ、驚いたようにグレイを見上げたナツだったが、すぐに顔を俯かせてしまう。
「……泣いてねーよ」
ナツは、空いている手でグレイの服を掴んだ。
「珍しいな、ナツがグレイといるなんて」
昼食の時間、珍しい組み合わせに、食堂に集まった面々の視線が集まった。
常ならナツは、ラクサスの隣が定位置だったのだ。それが今日は、ラクサスからは離れた場所で、グレイにぴたりとくっついている。今まで有り得なかった事だ。
ラクサスは、空席になっている己の隣の席を横目で見る。常ならそこにはナツが座っていて、鬱陶しいほどに笑顔で話しかけてきたのだ。
「今日は冷やし中華か……つか、食うなよ」
グレイが隣に座っているナツへと視線を向けて目をむいた。
まだ食事開始の号令もしていないのに、ナツは食事を始めていたのだ。しかも、ハムの姿だけが見当たらない。
「はえーよ!」
ナツは咀嚼しながら、まだ手をつけられていないグレイの皿へと視線を向けた。それに気付いたグレイがナツから皿を遠ざける。
「グレイ、ハムくれ」
「やるか!」
騒ぎ始めるグレイとナツ。それを眺めていたラクサスは、舌打ちをして視線を外した。
「振られたか」
ミラジェーンが朝食を乗せたトレーを手に、ラクサスの近くで足を止めた。
嘲る様な声に、ラクサスが苛立たしげに振り返る。
「妙な言い方すんな」
睨まれても怯む性格ではない。ミラジェーンは鼻で笑うと、ラクサスの隣の席へと座った。
ラクサスの隣はナツが座ると暗黙の了解となっていたから、席が空いていても誰もそこに座らなかったのだ。
「誰が座っていいつった」
「私がどこに座ろうが関係ないだろ。それとも先約がいたのか?」
ミラジェーンの席は、兄妹であるエルフマンとリサーナが、常通り確保しているのだが。ミラジェーンを待っていた二人は、呆れたような表情をしている。
エルザが号令をかけて食事を開始する。そのすぐだ、ミラジェーンが視線を感じて目を向けると、ナツと目が合った。
ナツはすぐに視線をそらして食事を再開したが、どうにも落ち着きがない。
ミラジェーンは口端を吊り上げると、わざとらしく声を上げた。
「おっと、何だか目まいがする!」
ラクサスに身を寄せる様に身体を傾かせる。
「てめぇ、今度はどういうつもりだ」
身体をひっつかせるミラジェーンに低く呻る。
しかし、ラクサスの機嫌が悪化しようが返答するつもりなどはない。ミラジェーンはナツをちらりと見て頬を染めた。その視線の先にいるのはナツで、狼狽するグレイに涙を浮かべながら引っ付いている。
恍惚してナツに見入るミラジェーンに、ラクサスは顔をしかめた。
ミラジェーンが、偏った性癖を持っていようが今まではラクサスに直接的な害はなかった。対象がナツだったからだが、今回は巻き添えをくらっている。
「この、変態女ッ」
苦々しく呟いた声は、ミラジェーンには届かなかった。
ナツの場合、落ち込んだり機嫌を悪くしても、大抵食事になれば回復する。常ならば、そうだったのだが、今回は異なった。
ナツが食事同様に楽しみにしている、おやつ。その時間になっても、ナツは食堂に姿を現わせなかった。
「グレイ、ナツはどうした」
昼食時には仲良く行動を共にしていたグレイの姿はある。
食堂を見渡しながら問うエルザに、グレイは不機嫌に顔を歪めた。
「知らねーよ」
昼食後も、ナツはグレイの部屋で過ごしていた。
しかし、会話に出てくる鬱陶しいほどに多いラクサスの名前に、グレイの募っていた苛立ちが爆発し、言い合いになった挙句、グレイはナツを部屋から追い出したのだ。
グレイの不機嫌さから大方予想はついたのだろう、エルザは溜め息を漏らした。
食べ物の事でナツが姿を現さないというのは、事件といってもいい。それほどまでにナツが傷ついているという事なのだから。
「……仕方がないな」
ナツが行きそうな場所の予想はつく。落ち込んでいる時などは屋根の上にいる事が多いと、寮生の中では認識されていた。
年下の面倒を見るのは、年上の役目。ナツを呼びに行こうと食堂を出たエルザだったが、扉を開けてすぐに、目の前を早い速度で影が横切った。
「廊下を走るな。なにを騒いでいるんだ」
咎める声をかければ、駆けていた者は足を止めて振り返り、人差し指を立てて上を指し示す。
「今、面白いもんが見れんだよ」
エルザは訝しみながら上を見上げ、すぐに納得が言ったように、ああと頷く。
指が指し示していたのは、エルザがナツのいる場所を予想していた屋根の上。食堂を出ようとしていたエルザは、足を踏み出す事なく、扉を閉めた。
屋根に出られる最上階の窓には、数人の寮性が固まっており、窓から外を覗いていた。
屋根に出たラクサスが、ちょこんと座る小さい姿に近づく。
足音に気付き振り返ったナツは、ラクサスの姿に目を見開くと、立ち上がった。逃げるのだろうと予想がついたラクサスは、ナツが足を踏み出す前に口を開く。
「今逃げたら、二度と構ってやらねぇからな」
その言葉は効果があり、ナツはびくりと体を震わせると、ゆっくりと腰を下ろす。
ラクサスはナツの隣に座り、真っすぐ前へと視線を向けた。マンションのような高さとはいかないが、近隣の町並みは眺められる。
暫く無言が続いたが、耐えられなくなったナツが口を開く。
「ら、ラクサスは……」
「あん?」
顔を俯かせているせいで、声がくぐもっている。ナツは、ゆっくりと顔をあげて再び口を開いた。
「ラクサスは、ミラが一番好きなのか?」
「冗談じゃねぇ、んなわけねぇだろ」
心底嫌そうに顔を歪めるラクサスに、ナツは漸くラクサスへと目を向けた。
「じゃぁ、ラクサスの一番ってだれだ?」
窓から覗いていた寮生たちは、ナツ達の声に耳を澄ませている。
拳を握りしめながら、ラクサスを促す様に、そこだ行け、と小さく声を出しているが、当然ラクサスに届くわけもなく、期待を裏切るようにラクサスはナツの問いに返答する。
「興味ねぇ」
野次馬から、呆れたようなため息が漏れた。
「ダメだな、あいつ。女心わかってねぇわ」
「ナツは男だろ」
ラクサスの言葉同様に興味が失せ、無言になってしまったラクサス達に、野次馬達はその場から離れていった。
ラクサスが言い切り、会話が途切れる。
少しの間があり、ラクサスは口を開いた。
「あの女に比べれば、お前の方がだいぶマシだ」
ミラジェーンの悪魔の様な笑みを思い出して、ラクサスの顔が引きつる。
ナツはラクサスの表情など気付かないのか、ラクサスの言葉に驚いたように目を瞬いた後、顔を俯かせた。
「ら、ラクサスは、ミラよりオレの方が好きなのか?」
「マシだって言ったんだ」
そっか。
嬉しそうに呟くと、ナツはいきなり立ち上がった。
「オレも!ラクサス大好きだ!」
ラクサスが座っている為、ほんのわずかナツの視線の方が高くなる。
ラクサスは唖然とナツを見上げた。ナツの背に太陽があるせいか逆光になってはいるが昼間だ、影がかかっているだけで見えないわけがない。
ナツの赤くなっている顔は、容易なく確認できた。
「おいっ、ちょっと待て」
ナツの言葉から、確実に誤解をしていると察し、ラクサスは内心慌てた。
しかし、ラクサスが呼び止める声も空しく、ナツは逃げる様に屋内へと戻ってしまった。
「早まったか……」
後悔するラクサスの声は、誰に聞かれる事なく消えた。
屋内へと戻ったナツは、軽い足取りで食堂へと向かう。気持ちが晴れ、おやつという事も加えて、ナツは今日一番で機嫌がよかった。
「良かった。降りて来たか、ナツ」
おやつである菓子を口にしていたエルザは、飛び込んできたナツの姿に安堵の溜め息をもらした。
エルザを見つけたナツが、目を輝かせながら口を開く。
「ラクサス、俺の事好きだって!」
食堂に響き渡る嬉々とした声は、いたるところで噴きだす者を出し、ミラジェーンは楽し気に笑みを浮かべながら、ひとりごちた。
「とうとう落ちたか」
その後暫くは、いたるところでラクサスを揶揄する声があり、ラクサスの不機嫌が続いた。
それから、数日後。
「ミラ姉」
小さく声をかけてきたリサーナに、ミラジェーンが振り返る。
リサーナは、周囲に人がいない事を確認すると、ミラジェーンの耳に口を寄せた。
「あれの駆除終わったって」
「本当!?」
珍しいミラジェーンの力ない笑顔に、リサーナもにこりと笑みを浮かべる。
「これで調理場に入れるね」
「ありがと、リサーナ。お礼にお菓子作ってあげる」
「うん!あ、ナツの分も忘れないでね!」
「分かってるわよ」
機嫌良く調理場へと向かっていくミラジェーン。その背中を見送ってリサーナは小さく息をついた。
「ミラ姉、本当にゴキブリ嫌いなんだから」
調理場での事件。あれは、唯一の弱点であるゴキブリを見てしまったミラジェーンが、タイミング悪く訪れていたラクサスに飛びついたのが事の始まり。
真実を知る者は、当事者であるミラジェーンと、その兄妹だけなのだった。
2011,04,25
副題。ナツ嫉妬、大好きなお兄ちゃんをとらないで(笑)
これ、書き始めて軽く半年は経ってる。へたしたらナツ休み企画前…かもしれない。
予定していた内容と違う、気がしなくもない、です。
プロレスはベッドで行うべきである。