Adagio ゆるやかに
しなやかな指が奏でる、柔らかくて優しい調べ。聞いているだけで、心が暖かくなる。その音と再び出会うために、父との想いの詰まった家を出る事を決意した。
天狼島に住んでいたナツは、大都市であるマグノリアへと身を移す。目的は、調律師になる為。その為に、現在の保護者であるマカロフが経営している音楽学校に入学する事になったのだ。
「ふぅ。やっと着いた」
学校の前で止まったバスから降りたナツは、体をほぐす様に背を伸ばした。
すでに夕方に差しかかる時間帯、早朝に島を出たナツは、船と電車とバスを乗り継いで、半日かけて到着する事が出来た。
固まってしまったかのような身体をほぐし、ナツは鞄を手に持った。
着替えなどの荷物はすでに、これから住む場所である学校の寮へと送られているから、今ナツが手にしているのは財布などの必要最低限のものだけだ。
「まず、じっちゃんとこ行くか。理事長室ってどこにあんだ?」
じっちゃんとナツが呼ぶのは保護者であるマカロフ。実際には血の繋がりなどない、赤の他人。父親であるイグニールの師であり、ナツが幼い頃に数回顔を合わせた程度。
本当ならば、マカロフが駅まで迎えに来てくれるのだが、予定時間よりも早く着いてしまったのだ。
ナツは敷地内へと足を踏み入れ、歩みを進める。周囲を見渡せば、授業を終えた学生たちとすれ違っていく。手にしたり背負ったりしている楽器のケースが、この場が音楽の道を志す者達が集う場所なのだと物語っていた。
「父ちゃん……」
ナツは、真正面に立っている建物へと目を向けた――――。
開け放たれた窓から心地良い風が入ってくる。それにカーテンと髪が靡く。ナツは、中央に設置されているピアノへと近寄った。そこには、赤い髪を靡かせる男が座っている。男の指は踊るように鍵盤をはじき、それと同時にピアノが音を奏でる。
部屋に音が満ち、ナツは男の隣に立つと目を閉じた。男もナツに一度視線を向けると、目を細めた。
『ナツ』
音が止んでも余韻に浸って目を閉じたままのナツに、男は笑みを浮かべながら名を呼ぶ。
ナツは、弾かれた様に目を開いた。
『とうちゃん、もっとピアノやってくれ』
赤い髪の男は、ナツの父親であるイグニール。
イグニールは、急かしてくるナツを抱き上げた。己の膝の上に座らせれば、背伸びしなければ鍵盤を見る事もできなかったナツも、鍵盤を見下ろせる。
ナツは首をひねってイグニールを見上げる。
『今度は、ナツも一緒だ』
『オレも?』
きょとんとした目に、イグニールは幼い手を手に取った。
『ナツの耳は、ピアノの声がよく聞こえるだろう?きっと、友達になれる』
『ともだち……』
ナツはじっとピアノを見つめる。その目は輝いていて、イグニールは笑みを深めた。
『友達になれば、ピアノが好きになる』
『とうちゃん!』
ナツは勢いよくイグニールへと振り返る。少し怒りが含んでいる目に、イグニールは首をかしげた。
『オレ、ピアノすきだぞ!』
イグニールは、一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに笑みに変わる。くすくすと笑みをこぼしながら、ナツの手を鍵盤に置いた。
『それなら、もっと好きになるよ』
イグニールの手に覆いかぶされたナツの手は、ゆっくりと音を奏でた――――。
回想にふけっていたナツの意識を浮上させたのは、耳に入ってくる音。ナツは周囲を見渡して、音がする方へと足を向けた。
校舎内へと入り、廊下にまで響き渡る音に導かれる様に急ぐ。鼓動がうるさいほどに高鳴る。
「とうちゃん……!」
耳に入ってくる音は、長い間聞いていないイグニールの音に似ている。聞く事は叶わなくなった、ナツが一番求めている調べ。
次第に音が近くなっていくが、どれだけ耳をすませて急いでも、一度も訪れた事のない場所だ、音が発せられる場所へは中々たどり着けない。
人に聞いた方が早いかと思考を巡らすが、人を捕まえる前に音が止んでしまった。
「ッ……おい、お前!」
ナツは、通りかかった学生の襟を掴んで止めた。
学生は、苦しそうに短いうめき声を上げて、ナツに恨みがましい目を向ける。
「て、てめぇ……」
「今のどこだ!」
ナツが引きとめたのは、同い年ほどの黒髪の少年。少年は、ナツの必死そうな顔を見て、怪訝そうだった表情を引っ込めた。
「今のピアノ、どこだよ!」
「ピアノ?……ああ、今の演奏か」
ナツの瞳が、少年をまっすぐに見つめる。
縋る様なナツの目に、少年は思わず目をそらした。だが、目に入ったナツの手、襟を掴んでいるその手が小刻みに震えているのに気付いて、少年はゆっくりと口を開く。
「そこを右に行ったとこにある練習室だよ」
少年が向ける視線の先へと、ナツは顔を向けると、身を翻した。
逃げるように駆け出し、少年が教えてくれた通りに曲がる。しかし、足を踏みきったところで、軽い衝撃にぶつかった。
練習室に向かう事しか頭になかったので、反応が遅れてしまった。前方から歩いてきた影と突きあたってしまったのだ。
倒れるほど強い衝撃でなかったのは幸いだろう。一歩足を後退させて、ぶつかってしまった相手を見上げれば、金髪の青年が不快そうにナツを見下ろしていた。
ナツよりもいくつか年上の、おそらく学生。教師にしては若いし、何よりも見下ろしてくる目が教育者の者ではない。
「わ、悪い」
ナツは、青年の凄みに顔を引きつらせながらも、青年の横を通り抜けた。目の前、数歩先には、扉の開け放たれた部屋がある。ナツは、教室名の書かれた名札を確認しながら部屋に飛び込んだ。
微かに乱れた呼吸を整え、部屋を見渡す。室内にいたのは学生が二人だけで、部屋に設置あされているピアノには誰も触れていない。
いきなり飛びこんできたナツに、先客である学生は目を見開いている。
「なぁ。ピアノ弾いてたの、お前か?」
ナツの問いに、二人とも首を横に振るった。
音が止んで、ナツがこの部屋へと訪れるまでわずかしか時間はない。見た限り、練習室から出るには、ナツが通った廊下しかない。それならば、行き違いになるということはないはずだ。
「……さっきの奴」
考え込む様に俯いて思考に沈んでいたナツは、顔を上げた。この場にいる学生二人が演奏者ではないとすれば、先ほどぶつかった青年しかいない。
ナツは、出て行こうとする学生に、振り返る。
「ピアノ弾いてたやつ会ったのか?」
「会うも何も、知らない奴なんかいないしな」
有名なのか。黙ったままで見つめるナツに、学生は口を開く。
「ピアノのラクサスだよ」
「ラクサス……それって、金髪の奴か?」
学生は頷いて肯定を示すと、部屋を出て行った。
静かになった部屋に取り残されたナツは、設置してあるピアノへと振り返った。照明を反射して黒く光るそれに引き寄せられるように歩み寄り、ピアノに触れる。
撫でるように手を動かしながら、ナツは椅子に腰かけた。
指で一つ鍵盤を押せば、軽い音が響く。耳に届いたそれの余韻に浸るように、ナツは目を閉じた。
「ラクサス」
名を呼ぶのと同時に、目蓋が震える。ゆっくりと開いたナツの目は、うっすらと涙の膜がはっていた。
「……何で、あんな風に弾くんだよ」
最初耳にした時は、イグニールが弾いているのかと錯覚してしまう程に、柔らかい音。しかし、そう感じたのも一瞬だった。次第に、奏でられる調べは波に飲み込まれるかのように、沈んでいった。
ナツは手を鍵盤へと置いた。先ほどラクサスが引いた曲を追う様に、指で鍵盤を弾く。音を紡ぎながら、ナツの脳裏には父親の姿が浮かんだ。
ナツの父親であるイグニールは、ピアニストだった。活動していた年数は長いとは言えないが、世に残している曲は少なからずある。先ほどラクサスが引いていた曲は、イグニールが作曲したものだった。
ナツは、演奏の手を止めて、小さく息をついた。ピアノの整備は定期的に行われているのだろう事は、調律師を目指すナツにはすぐに分かる。ピアノに問題はないのに、ラクサスが奏でた音は、冷たかった。
思い出せば目頭が熱くなる。
ナツは、それを消す様に再び息を吐きだした。
「どんな奴なんだろ」
「ナツ?」
聞きなれた声で名を呼ばれ、ナツはゆっくりと振り返った。
扉のところで立っていたのは、老人の男性。ナツの表情が、先ほどまでと一変し、笑みが浮かぶ。
「じっちゃん!」
「もう着いておったのか」
「おお。早く着いたから、学校見とこうと思ってさ」
ナツの言葉に頷きながら、マカロフはピアノへと視線を向ける。
「そのピアノは、ワシの家にあったものでのう。イグニールも使った事があったんじゃ」
「父ちゃんが?」
ピアノをまじまじと見つめるナツに、マカロフは懐かしそうに目を細めた。
「やはり親子じゃな。まるでイグニールがそこにおる様じゃった」
ナツがピアノに向かっていた所を見た瞬間、マカロフの目にはナツの姿がイグニールに見えた。髪の色は違うが、年を重ねるごとに、ナツの纏う雰囲気は確実にイグニールに近づいている。
マカロフの言葉に、ナツははにかんだ。
「俺は父ちゃんの息子だからな!」
無邪気な笑顔は、まだ幼い。それに笑みを浮かべていたマカロフだったが、それはすぐに引っ込められた。
「ナツ。お前、本当に調律科に進むのか?」
真面目な表情のマカロフに、ナツも真っすぐにマカロフを見下ろす。頷くナツに、マカロフは続けた。
「イグニールの演奏は素晴らしかった。ワシが見てきたピアニストの誰よりも……人を惹きつける物をもっておった。ナツ、お前にもそれがある」
「俺は」
マカロフの言葉を遮るように口を開いたナツは、ゆっくりと続ける。
「ずっと調律師になりたかったんだ。父ちゃんのピアノが好きだったから、修理とか調整とかしてやりたかった」
「じゃが、イグニールは……」
マカロフは顔を俯かせると、口をつぐんでしまった。ナツは気にした様子もなく続ける。
「父ちゃんのピアノは見れねぇけど、父ちゃんと同じ音を出す奴を見つけて、そいつの調律がしてぇ」
「イグニールのように才能のある者など滅多におらん」
父親を高く評価されて嬉しくないわけがない。しかし、今のナツの頭は、父親やマカロフの言葉よりも、先ほど耳にした悲しい旋律で満ちていた。
ナツはどこか遠くを見つめながら小さく呟く。
「俺、見つけたかもしれねぇんだ」
目を見開くマカロフに、ナツは笑みを浮かべた。
「今まで聞いた中で、一番父ちゃんに近かった」
あんなにも辛そうな音は聞いた事がなかった。あんなにもイグニールに近い優しく暖かい音は聞いた事がなかった。
「そんな者が、この学内におるのか?」
「ちょっと恐そうだったけどな。名前は……」
名前を紡ごうとしたナツの口は止まってしまった。正しくは、携帯電話の着信音で止められたのだ。
マカロフは懐から携帯電話を取り出すと、携帯画面に表示された名前を確認して顔をしかめた。
軽快な音を奏でる携帯をそのままに、マカロフはすまなそうに眉を下げる。
「すまんが、仕事でいかねばならん。一人で寮に行けるか?」
ナツが頷けば、マカロフは慌てて部屋を出ていった。
マカロフが運営する音楽学校は、高校と大学まで音楽を学ぶ為の一貫性。その分理事長としての仕事も多いのだろう。
マカロフが出ていったのを見送ったナツは、再びピアノの前に座った。先ほどとは別の曲を奏でていく。イグニールが作曲した中で、世に出回っていない曲。イグニールがピアニストではなく、父親としてナツの為に作ったもの。
イグニールが作曲したものには数少ない、テンポが速く、陽気で明るい。当然だろう、これは、まだ幼かった頃のナツを描いたのだ。
暗さなど知らない様な、ひたすら明るい。そして、何よりも優しい。どれほどイグニールの想いがつまっているか分かる。
ナツは演奏を終えると立ちあがった。陽が落ち始めているのだ、早々に寮へと向かわなければならない。
ナツは、名残惜しげに一度ピアノを振りかえり、その場を後にした――――
『ちょーりつ?』
ナツが首をかしげると、イグニールは調律の手を止めて、見上げてくるナツを見下ろした。
『ピアノの健康診断だな』
『父ちゃんのピアノ、どこかいたいのか?』
心配そうにピアノを撫でるナツに、イグニールは笑みを浮かべた。膝を曲げて、ナツの視線に近づけると、頭を撫でてやる。
『痛くならない様に、調律するんだ。そうだな、今の父ちゃんはピアノのお医者さんだな』
『お、おいしゃさん!』
ナツの輝いた瞳がイグニールを見上げる。イグニールはナツを抱き上げると、片手でピアノの鍵盤に触れる。
『オレ、父ちゃんのピアノ好きだ』
『父ちゃんもピアノも、ナツが好きだよ』
ナツは、笑みを浮かべながらイグニールにしがみ付く。
『オレもおいしゃさんになりたい!』
『そうか。ナツは調律師になりたいのか』
『ちょーりつし?』
きょとんと見つめてくるナツの頬に口づけを落とし、くすぐったそうに身をよじるナツに、イグニールは笑みを浮かべた。
『ピアノのお医者さんを、調律師っていうんだ』
『じゃぁ、オレ、ちょーりつしになる!父ちゃんのピアノのおいしゃさんになるな!』
それは、楽しみだ。イグニールは、くすくすと楽しそうに笑みをこぼした。
このやり取りの間もなくの現在から七年前、ナツの誕生日から一週間足らずの七月七日、イグニールは若くして世を去った。
ナツの誕生日に贈った曲が、イグニールにとって最後に手掛けた曲となった。
2011,02,28