消失
エドラスでの出来事は、無限に魔法を使える世界であるアースランドでは考えられない。特に魔法が消失する瞬間は。
アースランドでも同じ事が起きたとしたら、どうなるのだろう。
「いやーッ!!!!」
まだ日も昇っていない時刻。女子寮に悲鳴が響き渡った――――
昼頃にもなればギルドの者だけでなく客も加わって活気づく。その酒場の一角の席に座りこんでいる小さな影。ウェンディがぼうっとテーブルを見つめていた。
誰がどう見ても落ち込んでいるのは分かる。前日は元気に別れたのに、次の日である今日顔を合わせればこれだ。周囲も心配げに視線を向けている。
ウェンディの様子を離れて見ていたルーシィがシャルルに問うてみれば、すぐに返事が返ってきた。
「……夢?」
首をかしげるルーシィにシャルルは頷く。
「魔法が消える夢を見たらしいの」
シャルルも、詳しくは教えてもらえなかったようで、口を閉ざしてしまった。
夢の内容からして、エドラスの出来事は刺激が強かったのだろう。アースランドでは考えもしなかった光景だった。
確かに今まで当り前のものがなくなる事は恐怖になるのかもしれない。しかしウェンディは、目が覚めた後も再び夢を見てしまう事が恐ろしくて眠れないでいたのだ。
それ程までに怯える事なのだろうか、ルーシィには見当がつかなかった。それでもどうにかしてウェンディは元気付けたいという思いはある。
ルーシィが呻りながら考えていると、共に居たナツが立ちあがった。
「嫌な夢なんかギルドに居りゃ忘れんだろ」
ナツはにっと笑みを浮かべてウェンディの元へと向かってしまった。
「ちょっと、ナツ!」
ナツに常識は通じない。人の心の壁さえもぶち破ってしまう。それは場合によっては関心さえするが、ウェンディの繊細な心には刺激が強いのではないか。
ルーシィが慌てて止めようとしたが、それはミラジェーンに止められてしまう。
「ミラさん?」
「大丈夫だから。ナツに任せておきましょ」
ミラジェーンに笑顔で言われてしまえば頷くしかない。
ルーシィは心配そうにナツへと視線を向けた。
「ウェンディ」
名を呼んでくる声と視界に入った明るい色にウェンディが顔をあげる。ちょうど目の前の席にナツが座ったところだ。
いつもと変わらない笑顔を向けてくるナツに、ウェンディはその名を呼ぶ。
「ナツさん」
弱々しい声にナツは顔をしかめた。
「お前、嫌な夢見たんだってな」
ウェンディは再び俯いてしまった。小さく身体を震わせる姿から肯定ととっていいだろう。
これ程までに気を沈ませるような夢の内容なのか。気になってナツが問おうとするが、その前にウェンディが口を開いた。
「魔法が消えちゃう夢です」
小さな声で紡がれる言葉。それをナツは聞き逃さぬようにと耳を澄ます。
「魔法がなくなって、滅竜魔法が使えなくなって……」
ウェンディはゆっくりと顔をあげた。その目には涙がたまっており、少し動いただけで零れてしまいそうだ。
「怖かったんです」
あっけなく涙はこぼれた。幼い頬を濡らし、涙がテーブルへと落ちる。
「私には、それしかないから……滅竜魔法がなくなったら、グランディーネとの繋がりもなくなっちゃう、から……」
最後の方は嗚咽に紛れて聞きとり辛い。
ナツはウェンディを見つめながら、己の首に巻いてあるマフラーに触れた。
ある日、目を覚ましたら当然の様に存在していた温もりが消えていた。まるで夢から醒めてしまったかのようで、本当に現実だったのかと疑ってしまう程に居たという痕跡はなかった。
残ったのは存在を証明してくれるマフラーと、身体の中に在る魔法。
ナツにはイグニールから贈られたマフラーがあるが、ウェンディには目に見えて触れられる物はない。
有り得ないと考えていも、魔法が消える事があれば、唯一である繋がりが消えてしまうのだ。
「何言ってんだ」
珍しく真面目な声に、ウェンディは涙を拭って顔をあげた。大きな猫目と視線がぶつかり、ウェンディはそれを見入るように見つめる。
意志の強い目。どんな無茶な事でも、やり抜いてしまいそうな力を持っている、瞳。例えるなら、どんなものをも吹き飛ばしてしまいそうな嵐に近い。それなのに、普段は陽だまりの様に暖かい。
――――この人の側にいればいいんだ。
ウェンディの強張っていた顔が微かに緩んだのを感じ、ナツはテーブルに身を乗り出した。ウェンディの頭へと手を伸ばし、ぐしゃりと撫でる。
「魔法は分かんねぇけど、さっさとイグニール達探せばいいだけだろ」
何の根拠もない言葉だ。いつ見つけられるのか、本当に会えるのか分からない。それでもナツの言葉は、ウェンディの胸に簡単に入りこんだ。
今まで胸の中に広がっていた靄が晴れ、ウェンディの視界は先ほどよりも鮮明になる。
「……ナツさ、」
ナツの手が退けられ、ウェンディが声をかけようと口を開いた時だ。ウェンディの腹から音が鳴り響く。気が滅入っていたせいで、今日はまだ食事を口にしていないのだ。
ウェンディが慌てて腹を抑えると、それを遥かにしのぐ音が鳴り響く。驚いて視線を向ければ、目の前のナツが気恥ずかしそうに腹を押さえていた。
「腹減ったな」
タイミングの良すぎるそれに、まさかわざと鳴らしたのではないかと思えてしまう。
ウェンディがきょとんとしていると、ナツがミラジェーンへと振り返って手をあげた。
「おーい、ミラ!飯くれー!」
ナツはミラジェーンが返事したのを確認してウェンディへと視線を向ける。
「ウェンディも食うか?」
ウェンディは表情を緩めると大きく頷いた。
「はい!お腹ぺこぺこです!」
にっと笑みを浮かべるナツに、ミラジェーンが近づいた。
「何にする?」
「いつものだ!ウェンディは何にすんだ?」
「私も、ナツさんと同じものがいいです!」
互いに笑みを交わすナツとウェンディに、ミラジェーンもくすりと笑みを浮かべ背を向けた。
未だ心配そうにしているルーシィが視界に入り、ミラジェーンは安心させるように笑みを浮かべる。
大丈夫だったでしょ?
声を発せずに唇の動きだけで言葉を紡ぐ。声は聞こえていないが伝わったようで、ルーシィも安堵に表情を和らげた。
ミラジェーンは注文を伝えに厨房に向かいながらも、背後へと意識を向けた。耳に入ってくる笑い声。そこには先ほどまで聞こえなかった幼いものも混ざっている。
それがとても心地よくてミラジェーンは更に笑みを深めたのだった。
2010,12,19〜2011,01,19