小説 | ナノ




真っ白なシーツの敷かれた固いベッドの上には、綺麗な黒髪をしてた女性が横たわっていた。雪のように白い肌に生気はない。色のない唇を見れば一目でこの女性がもう起き上がることがないと、誰もが理解できた。しかし、その女性に縋る少年には理解できなかった。どうして母は自分が目の前に居るのにおかえりを言ってくれないのだろう。どうして母の手はこんなにも冷たいのだろう。そんな疑問を頭に浮かべながらも口に出そうとはしない。不安になり隣に佇む父の手を掴む。少年が握り返されたことに安堵していると、父親はベッドに背を向けて歩き始めてしまった。お母さんもちゃんと来るよね。少年の問いかけに父親が答えることはなかった。少年が母親の姿を見たのはそれが最後だった。次に会った時、母親は小さな箱になった。それは恐ろしいほど軽く、簡単に壊れてしまいそうだった。その日、少年は母親が死んでから初めて泣いた。以前のように自分の背を撫でてくれる人間はもういない。それが一層、少年の悲しみと寂しさを深くさせた。


一つドアを隔てた向こうからは朝のニュースと笑い声。同じ世界に居るのにまるで別世界の様だった。玄関に座り靴を履いていると、背中に何かが当たる。振り返ると派手な髪の色をした青年が黒い包みを差し出した。

「もう行くのかよ、臨也」

臨也、と呼ばれた青年は無言でうなづいた。臨也に声をかけた青年は静雄といった。名前の割に短気で喧嘩っ早い。今でも臨也はその名前は似合わないだろうと内心思っていた。静雄は臨也と同い年の異母兄弟だ。臨也が母親に似ていることもあり、とても兄弟には見えなかった。
臨也は特に部活動に参加しているわけでも、特別な用事があるわけでもない。ただこの空間にいるのが苦痛だった。初めてこの家に来た時から臨也はまるで幽霊のような扱いを受けている。居るのに居ないような扱い。最初こそ悲しくて泣いていたが今ではそれを当然だと思っていた。浮気相手の子どもを、一体誰が可愛がるのだろう。

「……」

静雄から渡された包みを鞄に詰めると臨也は静雄に一礼して玄関の扉を開ける。静雄が何か言いたげな顔をしていたが、臨也は無視した。静雄が何を考え何を言おうとしているのか、臨家には興味のないことだった。通っている高校までは歩いて30分ほどだ。今は秋の初めということもあり少しは涼しい気候になっている。夏は暑さだけでなく日差しもあり、よく熱中症や貧血になった。
10年前のあの日、臨也の母親は死んだ。母が親類と絶縁状態なこともあり、臨也は唯一の身寄りである父親に引き取られた。だが父親だと思っていた人には家族がおり、臨也の母親は浮気相手だった。その家には臨也と同じ年の子どもがいた。誕生日は臨也の方が早い。つまり父親は最初から臨也の母と浮気をしていたことになる。そんな女の子どもを本妻が受け入れるわけがない。彼女が暴力を振るうことはなかったが、面倒を見てくれたことはほとんどなかった。どこかへ出かける時も臨也は留守番で、食事も一日三食出されることの方が珍しい。用意された物置部屋にほとんど閉じ込められた状態で、父親が助けてくれるわけもない。
月日が流れるとともに臨也は理解した。自分は誰にも必要とされていない。母でさえ、自分のことを本当に愛していたのか分からない。男を繋ぎとめるための道具として自分を見ていたのかもしれない。そう気付いた時、流す涙は既に枯れてしまっていた。

昼休み。各々食堂に移動したり屋上へ向かう生徒の中、臨也は図書室へと足を運んだ。昼休みにここを利用するのはほんのごく一部だ。当然のように臨也は中へ入り、そのまま図書室の隣にある倉庫に入る。倉庫と言っても過去の貸出カードやアルバムなどが置かれているだけで、室内はとてもきれいだ。朝出るときに静雄に渡された包みを広げる。中身は弁当箱だ。臨也があの家で用意される、唯一の食事。それをもそもそと口に運びながら、窓から中庭を眺める。そこにはいくつかのグループが昼食を摂っていた。それを何か思うわけでもなくただ眺めていると、図書室とを繋ぐドアが開いた。鍵をかけていたわけでもないので、人が入ってきたこと自体は別に驚きもしない。こんな場所に来るのは自分以外に限られた人間しかいないことを臨也は知っていた。振り返ると案の定そこには同じクラスの門田がいた。同じ高校生にもかかわらず、その容姿はいくつか年上に思えた。

「図書室は飲食禁止だって貼り紙、見えないのか?」
「知ってるよ。だから準備室で食べてる」
「あのなぁ……」

門田は溜め息をつきながら後ろ手にドアを閉め、臨也の横に椅子を並べた。そして手に持っていたコンビニ袋からパンを取り出すと、無言で食べ始める。パッケージに書かれたマンゴー味という字に臨也は絶対に不味いだろうと内心思っていた。

「さっき俺に飲食禁止だって言ったのに」
「ここは物置だからいいんだよ」
「……ドタチンも言うようになったよね」
「だからやめろそのあだ名」

臨也は門田に対しておかしなあだ名をつけていた。幼い頃から自室として宛がわれた物置にあった大量の本を読んでいるせいもあり、臨也は少し変わった世界観を持っていた。もちろん門田は自分に付けられたあだ名をよく思っていない。やめろと口では言いながらも、それ以上は言わない。臨也にとって自分が数少ない友人であると分かっているからだ。育った環境のこともあり、臨也は自分から必要以上に他人と関わりを持とうとはしない。

「なんかまた痩せてないか?」
「……そんなことないよ?」

元から制服のサイズが大きいんだ。そう言いながら箸を進める臨也の弁当の中身はほとんど減っていない。おいしくないわけではないが、あまり食べる気にもなれなかった。門田と他愛のない会話を終えると、臨也は保健室へと向かった。午後からの授業が自習だと事前に知っていたからだ。保健室のドアには『会議中』とプレートがかけられていた。小言を言われなくて済むと安心した臨也は一番端のベッドに向かう。このまま放課後まで寝てしまおうか。そんなことを考えながら閉められていたカーテンを開けると、そこには静雄がいた。

「……よぉ」
「……」

臨也はこれでもかと嫌な顔をした。静雄が授業をサボる時に使用するのは屋上のはずだ。会いたくないから臨也は静雄の行動をある程度把握している。その苦労をこの男は。そんなことを腹の底で考えながら、臨也はすぐにカーテンを閉めた。しかし他にベッドのある場所などない。自習のせいで普段よりも喧騒の溢れる教室で眠れるほど、臨也は無神経ではない。いっそ帰ってしまおうかと考えていたとき、静雄は面倒くさそうにベッドから起き上がった。踵を踏まれて形の歪んだ上履きを履き、ここから出て行こうとした。臨也が安堵したのもつかの間。すれ違う時に静雄は何故か臨也の肩を掴んだ。あまりの強さに臨也はよろめく。思わず手に持っていた弁当箱の包みを落としてしまった。静かな保健室には恐ろしいほど落下音は響いた。

「……何で門田とは喋るのに俺とは喋らねぇんだ」
「……」

この男は何を言っているのだろうか。臨也は掴まれた肩をぼんやりと見つめる。臨也にとって静雄は一番理解できない存在だった。自分の母親を少なからず悩ませている自分を、家に来た時から静雄は構ってくる。それが好奇心からくるものなのか、面白半分なのかは知らない。ただ静雄が臨也に構えば構うほど、母親の機嫌は悪くなった。

「……」

この状態に先に痺れを切らしたのはやはり静雄の方だった。床に落ちた弁当箱を拾い、荒くったくドアを閉めて出ていく。そんな静雄の後ろ姿を臨也は最後まで見ることはなく、肩から手を離されると同時にベッドへと潜り込んでいた。掴まれた場所が熱い。痛いわけではないが、熱を持っていた。静雄はの手はどれだけ温いんだと心の中で文句を言いながら、臨也はゆっくりと目を閉じた。


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