小説 | ナノ






「ん、うぅ……」

私が目を覚まして最初に感じたのは、酷い腰の痛みだった。続いて下半身の濡れた感触。見れば白いものが半乾きの状態で服や足にべっとりとこびりついていた。起き上がろうと力を入れてみるが、立ち上がれそうにもなかった。
身体にかけられていたシーツを退けると、尻から何かが垂れる感覚に身震いした。太ももを伝う感触に昨日のことを鮮明に思い出してしまう。身体の痛みよりも、もっと違う胸の辺りが苦しくて仕方がなかった。

「……はは」

乾いた笑いは、静かな部屋に響く。床に敷いたままのデリックの寝床は昨日と変わった様子はない。ここで眠らずにどこかに行ってしまったのだろうか。安心するはずが、なぜか不安の方が大きかった。
とにかく今すぐシャワーを浴びたい。そうすれば少しは落ち着くだろう。ベッドから何とか降りて、這うようにして浴室に向かった。静かな廊下はまだ津軽とサイケが眠っていることを物語っていた。
そのまま浴室に行こうと思ったが、喉が渇いていることを思い出してリビングの方に向かった。腰だけじゃなく、足も痛かった。もう全部痛くて、何が何だか分からない。必死に食器棚からコップを一つ取って、水を汲んだ。冷えた水は身体には少しきつかったかもしれない。それでも少し気分が落ち着いた気がする。

「もう……やだ……」

落ち着いた分、冷静になってしまった。あんなことをされたのに、怒りよりも悲しみの方が大きかった。それを一刻も早く忘れたくて元来た道を戻ろうとすると、視界には見慣れた白いズボンが目に入った。

「あ……」

視線を上に向けることができない。どこかに行っていたと思っていたデリックはただ、リビングにいただけだったようだ。また酷いことをされるかもしれないと、身体は怖くて震えていた。耐えていた涙も一気に流れていく。フローリングには水滴がいくつもできていた。
デリックは何も言わない。それが余計に怖かった。早くどこかに行ってくれと念じていると、いきなり抱きかかけられる。
突然のことで驚いた。俗に言うお姫様だっこと言うものをされたせいで、すぐ近くにデリックの顔がある。泣いてぐちゃぐちゃになった顔を見られたくなくて、必死に両手で隠した。それでもデリックは何も言わずに歩きだした。

「ふ……うぅ……」

廊下には、私の嗚咽が響いた。すぐにドアの閉まる音が聞こえたが、顔を手で覆っているせいでどこへ連れて行かれたのかは分からない。ただほとんど意味のない服を脱がされているのだけは分かった。またあの酷いことをされるのだろうか。
直接触って来たデリックの手は冷たくて身震いした。思わず顔を上げてしまう。そこには何を考えているのか分からないデリックの顔があった。そしてここは、浴室だった。

「……」

どうしていいのか分からなくて、ただデリックを見つめた。見たことのない表情を浮かべていたからだ。昨日、あんな酷いことをしたとは思えないような、そんな顔だった。

「あの……」

声をかけると、デリックの肩が目に見えて震えた。躊躇しながら私に伸ばされた手は、ゆっくりと頬を撫でる。その手つきは、あのときとは全く違うものだった。突然、目を手で覆われる。見えなくなった視界に恐怖を感じていると、唇に触れた温かい感触。そして小さく聞こえた、謝罪の言葉。

「デリック……?」
「……」

私が呼び止めてもデリックは振り返ることなく、浴室から出ていってしまった。引き留めたかった。でももし、冷たく引き離されたら。そう思うと怖くて伸ばしかけた手が、デリックに触れることはなかった。
浴室の扉一枚が、とても分厚く感じた。
シャワーのコックを捻る。温かい湯が、冷えた身体を濡らしていった。だが温まったのは身体だけだった。やり方が分からないまま、中にあったドロドロとした液体を処理した。綺麗になったかは分からない。でもずいぶん違和感はなくなった気がした。

「……ひびやくん?」

物音に目を覚ましたのだろう。脱衣所にはいつの間にかサイケがいた。どうやら服を脱いでいるらしい。一緒に入る気なんだと気付いて慌てて顔をシャワーで濡らす。赤くなった目は隠せないだろうが、どうにかやり過ごしたかった。
案の定サイケは一緒に入ると言って強引に入って来た。別に狭いわけではないし、いつも一緒に入っているが今日は遠慮したかった。
まだ眠そうに眼を擦っているサイケは、シャワーである程度身体を流すと浴槽の中に入ってしまった。私も身体や髪を洗って、その隣に座る。ちょうどいい湯加減に何故かまた泣きそうになった。

「そーいえば……デリックもはやおきだね」

今一番聞きたくなかった名前に肩が震えた。

「そ、そうみたいだな。いつも昼間で寝ているあいつにしては珍しいかもしれん」
「そーなの。へんなデリック」

サイケでさえおかしいと感じるほどなのか。さっきすれ違ったなら、どんな様子か聞きたかった。デリックは怒っているのだろうか。それとも。

サイケが身体などを洗うのをぼんやりと眺めて、一緒に風呂から出た。脱衣所には、私の分の新しい下着と服が用意されていた。サイケは何も言わずに着替えていく。デリックがしてくれたのだろうか。
いつもデリックが仕事に行く前に、全て用意してくれていた。これからは自分でそれもしなければいけない。それほどにまで、私はデリックに頼りきっていたのかと情けなくなった。

身体のだるさも随分楽になった気がしたが、今日はあまり動きたくなかった。

「今日は気分が優れないようだ……少し休ませてもらう」
「そうなの?おねつない?」
「そ、それは大丈夫……」
「なにかあったらすぐにいってね?サイケ、すぐにくるから!」

サイケは内緒話をするみたいに小さな声で話すと、自室へと戻っていった。サイケなりの気遣いを嬉しく感じる。
私のベッドは色んな汚れで、とてもじゃないが眠れる状態ではなかった。
それでも身体はだるくて仕方がない。その時目に入ったのは、床に敷かれたデリックの布団だった。勝手に寝たら怒られるだろう。でも、もうデリックは私の傍には帰って来ない。
また流れそうになった涙を何とか耐えて、誤魔化すように私は布団に潜り込んだ。使われていない布団は冷たくて身震いしたが、すぐに自分の体温で温かくなった。
そういえば、風呂の湯は丁度いい温度に温められていた。きっとあれも、デリックがしてくれたんだろう。私のことを見捨てるなら、中途半端に優しくしないでほしい。そんなことをされたら、余計に苦しくて泣きたくなるのに。
枕に顔を埋めると、デリックの匂いがした。不思議と落ち着くその匂いに、耐えていたはずの涙が溢れてきた。

「ひっく……デリックぅ……」

あのときどうして謝ったんだ。どうして、あんなに優しく口付けたんだ。最後まで冷たく私を突き放してくれたなら、この気持ちにも気付かなくて済んだのに。


その日からデリックは私の前から姿を消した。
そしてまた、私の隣には誰もいなくなった。














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