金曜の夜、予定していたよりも早く仕事が終わり、総司は凝った背筋をほぐすように思い切り伸びをした。
その姿勢のまま、窓の外に広がる景色を見ながら夕飯をどうしようかと考える。今日は特に予定もないが、帰って一人分の食事を作るのも面倒な気分だ。
ぼんやりとそんなことを考えていると、原田と視線が合い、くすりと笑われる。
「総司、お前いつまで伸びてんだよ?」
「んー、今日夕方からずっと資料作ってたから、肩が凝っちゃって」
そう答えてからようやく全身の力を抜き、椅子の背にもたれかかる。そう言う原田の方も午後からの内勤で疲れたのか、しきりに肩を回していた。
「終わったのか?」
原田の言葉に、総司は苦笑を返す。
「うん、一応ね。多分土方さんから、ダメ出しあると思うけど」
「そりゃあ俺も一緒だ」
おかしそうに笑う原田に問いかける。
「左之さんも会議資料?」
「ああ。来期はどこ攻めるか、だな。正直どこも厳しいんだけどな」
原田は眉根を寄せた後、お手上げとでも言いたげに苦笑を浮かべた。
「本当、悩みどころだよねぇ」
二人揃って溜め息をついたところで、目を合わせて笑う。
「もう終わったんだろ? この後、なんか予定あんのか?」
夜を映した窓ガラスを背に、原田の寄越した柔らかな眼差しは、何故かいつもと違う雰囲気で、思わずドキリとさせられる。
そんな気持ちを隠すように、総司はわざと呆れたような声を出した。
「別にないけど、もしかしてまた飲みに行くとか言い出すの?」
「ああ、正解。どうだ?」
「いいけどね」
軽く呆れたふりをしてみたものの、原田の誘いは夕飯をどうすべきか悩んでいた自分にとっては渡りに船だった。
改めてオフィスを見回せば、自分たちの課には原田と自分しかいない。いつもの面子はまだ帰って来ていないし、千鶴は既に退社していた。やけに空席の目立つ社内。
「誰も戻ってないけど、どうする?」
「そうだな、先に始めときゃいいだろ。あいつら待ってたら、いつになるか分かんねえからな。電話だけしとくわ」
「そっか、それもそうだね」
パソコンの電源を落としながら、総司は続けて問いかける。
「で、今日はどこ行くの?」
「そうだな。今日は俺ん家で飲まねえか?」
「え、いいの? 僕、左之さん家って初めてなんだけど」
「その代わり、暴れんなよ」
からかうような原田の言葉に、総司は笑いながら言い返す。
「あのさぁ、左之さんと一緒にしないでよ。大体、飲みに行って暴れ出すの新八さんか左之さんじゃない」
「そうだったか? 悪ぃな」
大して悪いとも思ってなさそうな口調でそう言うと、笑みを浮かべたまま原田が立ち上がる。
「じゃあ行くか?」
「うん」
返事をして、総司はカバンを掴んだ。
マンションへと向かう途中、原田の案内でこじんまりとした酒屋に入った。
店構えこそ小さいが酒の種類は豊富で、冷ケースの中には軽食まで置いてある。さすが酒好きを自認するだけあって、原田はいろんな店を知っているようだ。
酒の方は原田に任せることにして、総司は手に持ったカゴに無造作に食べ物を放り込んだ。ふと思い立って、棚の裏側にいて姿の見えない原田に声をかけた。
「左之さーん」
「なんだ?」
棚の向こう側から姿を表した原田の目の前に、カゴを差し出す。
「これぐらいで足りると思う?」
「どうだかなぁ……」
僅かに歯切れの悪い原田の口調に少し違和感を覚えながらも、総司は取り立てて気に留めることもなかった。
結局誰が来るのかどうかさえよく分からないのだ。足りなければまた買い足そうということで話が落ち着いた。
「そう言や、総司が酔っ払ってんの見たことねえな」
思ったより広い原田の部屋に腰を落ち着ける。二人で先ほど買って来た肴を突つきながら酒を飲んでいると、原田が急にそんなことを口にした。
「酔っ払ってみっともなく騒ぐ先輩たちを見てるせいかなぁ」
にやりと笑ってそう言うと、原田が大げさに眉を顰めて見せた。
「お前なぁ……ま、いいか。今日は潰れても大丈夫だからな。飲んどけ、飲んどけ」
言いながら総司のグラスに酒を注ぐ原田の手は、自分のそれより大きい。
原田は自分より背が高いから当たり前と言えば当たり前なのだが、そのことに初めて気づいたように、その手をまじまじと眺めてしまった。
普段ゆっくり話すこともできない原田と、差し向かいで話をするのは考えてみれば初めてだ。大勢の輪の中で二人で話をすることはあっても、二人きりで飲むことは今までなかった。
「そう言えば、左之さんと二人で飲むの初めてだよね」
「そうだな」
こちらを見つめる原田のくすぐるような視線に気づき、総司は思わず背筋を伸ばした。なんとなく感じ始めた緊張感を、ごまかすように酒を口にする。
同じペースで酒を呷るその顔をぼんやりと眺めると、総司の目線に気づいたのか原田が微笑みかける。
「酔ってんじゃねえのか?」
「え?」
「珍しくぼんやりしてるからな」
そう言われてみれば、確かに少し気が緩んでいるように感じる。おかしいな。
家飲みだからだろうか。原田の言うように酔いが回ってきていることを、自分でも感じていた。身体を動かすのが少し億劫だ。
「いつも酔わねえのにな。今日は回んの早えんじゃねえか?」
同じ量を飲んでいるはずなのに、どう見ても素面に見える原田から、からかうような
視線を向けられては面白くない。
「酔ってないよ別に。それより、みんな遅くない?」
話題を変えようとした一言だったが、口にしてみて改めてそのことに気づいた。原田の部屋に落ち着いて、既に一時間以上が経過しているというのに、誰一人やって来ない。
「みんな忙しいのかな? それにしても遅いよね」
言いながら、ふと原田へと視線を向けるとその表情から先ほどまでの笑みがかき消えていることに気づいた。
「電話……してねえからな」
「え?」
「だから、誰も誘ってねえってことだ」
原田はそう言うと、自嘲するような笑みを見せた。
「……なんで?」
「お前と二人きりで飲みたかったから、かな」
原田にしては珍しく硬い口調で言われると、おかしな緊張感が総司の全身を支配する。
次に何を言われるのだろうか。分からないが、このまま聞いていていいのだろうかという懸念が湧き上がる。
「だったら最初から、そう言ってくれれば良かったのに」
「だよな。こういうの卑怯だって、自分でも分かってんだけどな。なんとなく……ビビっちまった」
原田は苦笑を浮かべると、総司を真正面から見つめてきた。さっきから、今まで見たことのない表情ばかり見せられているような気がして、緊張がますます高まる。
「卑怯って大げさだよ、左之さん」
笑ってごまかそうとした自分の手を、テーブルの上に押さえつけられた。自分より大きな原田の手。その長い指が、そっと総司の手の甲を滑る。
「ごまかすなよ。俺が必死になってんのは、お前のせいなんだけどな。総司」
「そんなに必死には見えないんだけど」
少し笑いながらそう言うと、原田は意外なほど真面目な表情を見せた。
「必死だぜ、これでも。何せ男を口説くの初めてだからな。この通り、いろいろ格好悪いことになっちまったし」
そう言って原田は軽く肩を竦めた。
「口説かれてるんだ、僕?」
総司はさり気なく、重ねられた原田の手を外す。先ほど触れられた指の軌跡が熱を持っているような気がして、少しばかり酔った頭でもこの状況はマズいと判断できた。
「ああ、口説いてるよ。どうする?」
「どうするって……」
酔いが急に勢い良く全身を巡り出したような気がする。どくどくと心臓の脈打つ音が、やけに大きく聞こえた。
酔っ払っているせいなのだろうか、嫌な気分ではない。先ほど手に触れられた時にも、嫌悪のようなものは感じなかった。
それが、余計にこのままここにいてはいけないような気にさせられる。
「……帰る」
「ちょっと待てって」
慌てて立ち上がろうとする原田を制するように、総司は口を開いた。
「そういうのは、素面で言ってくれる? 酔っ払いの言葉を真に受けるほど、僕バカじゃないから」
ドアへと向かう総司の背を、後ろから原田の腕が抱き止めた。回された手は、しっかりと自分の体を抱きしめている。
「総司」
名前を呼ぶ声が少し弾んで聞こえるのは、気のせいだろうか。
「何? 帰るって言ったよね、僕」
総司の言葉を気にする様子もなく、原田は落ち着いた様子で「ああ、そうだな」と耳元で囁く。
「勘違いしないでくれる? 素面なら聞いてもいいって、言っただけだから」
「分かってる」
そう返事をしながらも、原田は総司を離そうとはしない。髪の毛に唇を落とされて、酔いだけではない熱が総司の頬に上る。
「僕の言ってること聞いてるの?」
「ああ、聞いてる」
「じゃあ、手離してよ。邪魔なんだけど」
無理にでも振り払えばいいと分かってはいるのだが、そうする気にはなれない。酔いのせいだろうか。
「酔ってんだろ? 泊まってけよ」
そんなことをさらりと言ってしまえる原田は、口で言うほど必死には見えない。
「なあ、総司」
黙っていると、原田が甘い声音で誘いを重ねる。
問題は誘いに乗ってしまってもいいと思う自分自身なのだろう。本当のところ最初から、選択肢なんてなかったに違いない。
根負けしたように総司は軽く目を閉じる。そして、ただ一つ残された選択肢を伝えるためだけに唇を開いた。
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