静かだった。
訪れる人なんて食事の世話をしにくるおばさんくらいで、それも週に2日来ればいいほうで、彼女と僕との間に会話らしきものはない。
それを寂しいと思うと同時に至極当然だとも思った。
「…総司?」
控えめにかけられる声に重たい体をゆっくりと起こす。
障子のシルエットが、今はもう短くなってしまった髪と、スラリとした体躯を映し出す。
「こんばんは、土方さん。」
夕暮れを背にした土方さんは僕が起きていたことに驚いていたのか、それとも向けられた笑みに驚いたのか(おそらく後者だ)一瞬目を見開いてぎこちない笑みを浮かべた。
久々に浮かべた笑顔のせいで頬が痛い。
強張っていた表情筋を解すように、布団の横に座った土方さんに向けて笑顔を作った。
「珍しいですね。土方さんが来てくれるなんて。」
いつもの冗談のつもりで言うと、土方さんは何故か罰が悪そうに頭をかいた。
「…土産だ。」
そう言ってぶっきらぼうに突き出されたのは…
「え、気持ち悪い…」
甲羅を紐で括られたそれは、料亭では高級料理として出されているものとは俄には信じられない。
にゅるっと今にも音が聞こえてきそうな、まるで軟体動物みたいな軟らかさで首を出し入れする様は、「気持ち悪い」の一言につきる。
「ったく、そんな訝しげな目で見るんじゃねぇよ。」
そう言って空いているほうの手で僕の眉間をつつく土方さんは穏やかな表情を浮かべていた。
「おい、千鶴。」
「え?」
唐突に出された姿の見えない彼女の名前に驚いて視線を障子に向けると、いつの間にそこにいたのか、立ち上がった影が障子を開いてその姿を見せた。
「これを頼む。」
そう言って渡されたすっぽんを受け取ると、全てを心得ている千鶴ちゃんは僕に軽く会釈して部屋を出て行った。
ほくほくと湯気をたてる鍋の向こうに見える土方さんと千鶴ちゃんの姿に、思わず笑みが浮かぶ。
「何笑ってんだよ?」
そんな僕に気づいたのか、土方さんがすっぽんを口に運びながら訊いてくる。
「いえ…なんか、嬉しくって。こうして誰かと食事をするのって久々ですし。屯所にいるみたいで楽しいです。」
思わず零れた本音に、すごく切なそうな顔をした土方さんは、「もっと食え」と僕の取り皿に大きな切り身を入れてくれた。
「また来ますね。」
そう言って玄関を出る千鶴ちゃんに手を振って、その後に続こうと足を踏み出した背中を呼び止めた。
「土方さん、」
振り返ることなく立ち止まった土方さんに、先ほどまでの決意が揺らぐ。
土方さんが来たことは純粋に嬉しかった。
でも同時にとても不安になった。
旧幕府軍を取り巻く情勢が日増しに厳しくなり、新撰組も忙しくなっていく中、副長である土方さんが見舞いのためだけに僕の元を訪れるとは考えにくい。
何かある。
土方さんと共に過ごしてきた時間が、僕の直感を刺激した。
「…じゃあな。」
行ってしまう。
そう思うと、自然と土方さんを呼び止めていた。
「土方さんっ!!」
ぴたりと止まる足に、土方さんの気配が先を促す。
「…江戸を出るんですね。」
あえて何故、とは訊かなかった。
だってそんなことはわかりきっている。
「…明日未明、俺たちは会津へ向かう。」「っ…!」
予想できていたこととは言えやはりショックだった。
だがそれ以上に衝撃を受けたのは、土方さんの言う「俺たち」の中に僕が入ってはいないだろうこと。
その事実が日増しに自由を失っていく体と相まって、僕の気持ちを絶望へと落とす。
「そう、ですか…。」
「戦に勝って必ずまた戻ってくる。だから総司…死ぬなよ。」
真剣な眼差しで僕を見る瞳はほんの少しだけど揺れていて、その揺らぎの中に何故か最愛の人の姿を見た気がした。
唇にふらりと押し当てられる温もり。
それはあの人のものよりも少し冷たくて、あっという間に離れていった。
「ふっ、こんなことしたら原田に怒られちまうな。」
苦笑と共に離れていく土方さんの、諦めにも似た笑みに、「仕方ないな、総司は」と言って笑う左之さんの顔が浮かぶ。
「左之さんも、行くのかな?」
土方さん達とは袂を分かった左之さんは既に江戸にはいないかもしれない。
土方さんが左之さんと連絡をとっているとも考えにくい。
でも、訊かずにはいられなかった。
「…原田達は一足先に江戸を出たと聞いている。」
「……」
「会ってないのか?」
「はい…。」
「生きていればいつか会える。…またな。」
土方さんが出て行った瞬間、全身の力が一気に抜け、静寂が訪れた玄関に崩れ落ちた。
コンコン、
控えめに戸を叩く音に、沈んでいた意識が急浮上する。
土方さんが来てからもうひと月が経とうとしていた。
一体誰だろう?
ぼんやりと思いながら玄関で手伝いの人と話す声に耳を傾ける。
男の声だろうか?
念のため枕元に携帯している刀を引き寄せて襖に息を潜める。
男の体重に廊下が悲鳴を上げ、それがどんどん近づいてくる。
一筋の汗が頬を伝うと同時に障子が勢いよくひかれた。
はっ!
瞬間的に抜刀すると、一歩踏み込んできた相手のちょうど頸動脈辺りに刃を当てた。
「っ!総司…!」
驚きに目を見開いた男、左之さんを見て、その予想外の訪問者に僕は我が目を疑った。
「え、左之さん?どうして?」
江戸を出たのではないのか?
様々な疑問が頭の中をぐるぐる駆け巡る。
凍りついた僕を見て左之さんは両手を挙げると、困ったように微笑んだ。
「とりあえずその刀をひいてくれないか?総司。」
「あっ、す、すみません!」
慌てて刀を鞘に戻す。
「でも、どうして…ゴホッ!ゴホッ!」
緊張がほぐれたためだろうか、途端に咳こみ、生暖かいものが喉をせり上がってきた。
「うっ、ゴホッ!!」
慌てて桶に手を伸ばすと、力強い腕が桶を引き寄せ、喀血する僕の背中を撫でてくれた。
優しい手の温もりに、次第に呼吸が落ち着いてくる。
「すみません。もう、大丈夫です。」
口元の血を拭いながら言うと、眉をひそめた左之さんに促されて布団に戻った。
「…総司。」
「はい?」
低い声に何も気づかなかったように笑顔を作ると、枕元に膝をついた左之さんは神妙に頭を垂れた。
「すまなかった。」
「っ!!」
咄嗟に言葉がでてこなかった。
どうして謝るのだろうか?
左之さんが新撰組と離れても闘い続けていることは知っている。
そしてその重さも。
男として、最期まで己の信念を通すこと。
そんな左之さんの姿を羨むことはあれど、謝罪させるつもりなんて毛頭ない。
「どうして、謝るんですか?」
そんな必要はないでしょう?
と言外に告げると、前に見たときよりも逞しくなった腕が艶をなくした僕の髪を撫でた。
「俺は…やっぱりお前を置いては行けない。」
髪を撫でていた手がゆっくりと下に下ろされ、頬を包むように指の腹で何度も撫でられた。
僕を見つめる金色の瞳がふっと細められる。
「俺は闘うと決めて新撰組を出た。だがな、戦に勝っても喜びなんて沸いてこなかった。俺の心は何かが欠けちまったみたいに空虚なままだった。何も感じない。ただ立ち向かう相手を斬る。それだけの日々だった。最早何の為にこの槍を振るうのか、それさえも見失っちまっていたんだ。」
「……」
「ある夜、夢を見たんだ。お前と2人、誰もいない静かな所で暮らしてんだ。贅沢なんてできねえ質素な生活だが、そこにはお前がいた。俺達は笑っていた。すげえ、あったかかった。」
そう言うと左之さんは一番優しい笑顔を浮かべた。
「一度やると決めたことを放り投げることになっちまう。けどな、俺は…俺は、お前といたいんだ。こんな俺じゃ、お前は嫌か?」
今までこんなふうに左之さんが僕の前で弱みを見せたことがあっただろうか。
いや、ないだろう。
どんな時でも飄々としていて、大人な左之さん。
でも僕は、左之さんが本当は誰よりも寂しがり屋で、そして誰よりも優しい心の持ち主だって知っている。
そんな左之さんだからこそ、僕は共にありたいと思うんだ。
「嫌、なんて言うと思ったんですか?」
僕の応えに目を丸くして、でもすごく嬉しそうに笑ったこの人と、僕は最期まで共にいよう。
背中に回される大好きな温もりを感じて引き寄せられると、どちらともなく唇が触れあった。
久しぶりの口づけは少ししょっぱくて、でもすごく甘かった。
END