その幸せは幸せに非ず
(に)
しんちゃん、と唇から奏でられた言葉が、俺の鼓膜を揺らした。
それは側にいたまた子にも聞こえていたようで、また子は声の主に視線を向けてなんとも言えない顔をする。
「どうかしたか」
「…んぅ…眠いの」
「それなら、部屋に戻るか。また子、後で部屋に、こいつの飯を持ってきてくれるか」
「…は、はいッス!」
手を上にあげて返事をしたまた子に、小百合は溶けるように微笑んだ。
小百合の記憶は、どうやら改変されているらしかった。
目を覚ました時に俺を「しんちゃん」と呼んだのは人違いかと思ったけれど、間違いではなく本気のようだ。
確かに晋助という名前から、しんちゃんと愛称を付ける事は可能だ。
恐らく、それに漬け込んでの洗脳なのだろう。
「…しんちゃん」
「どうした」
「しんちゃん、私、しんちゃんの事、好きだよ」
「…、そうか、俺も小百合の事好きだぜ」
「えへ、嬉しい」
ふわふわとした笑顔を湛え、少女は俺の腕に巻き付いた。
だけれど、恋人との違和感は身体が覚えているらしい。
少女は確かめるように、補うように、事あるごとに愛の言葉を紡いだ。
どこにも行かないで。
側にいて。
手を握って。
名前を呼んで。
願いは儚くて、それからとてつもなく簡易的な物だった。
傍らで彼女に触れてさえいれば、それで事足りるような。そんな要求ばかりだ。
こいつがここに来てから、このやり取りを一体どれだけやっただろうか。
恋人の代わりになるハズなのに、そういった雰囲気になる事もない。
擦り寄る小百合の顎を持ち上げて顔を寄せたら、軽く往なされる。
本当の恋人は、こんなことしないって事なのだろうか。
ふいに浮かんだその問いは、とりあえず噛み砕いて飲み込んだ。
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