(現代大学生設定です)

(※死ネタご注意)







・ソーダ水に沈む星の涙








 うちの学生で死んだ者がいるらしいと聞いたのは、ラウンジで見かけた知らない学生達のお喋りからだった。「休み中、旅先で何か事故に遭って死んじゃった奴がいるんだってさ」「えー、誰」「わからない」「えー」聞いた私も少なからず驚きはしたけれど、それに特に肩をいからせて歩幅を広げ始めたのは隣を歩くエースである。
 彼と私はたった今まで並んで歩きながら、いたって普通に話をしていた。あと15分程で終了する昼休みの後、長い長い夏休みを挟んで久々に行われる外国語の講義がある。これは複数用意された言語の中から最低でも一種は選択しなければならない必修で、エースは「英語は高校までのも頭に入っちゃいねえから、一から習うようなのがいい。まだマシな気がする」とイタリア語を選択したのだそうだ。それでもどうにもチンプンカンプンなようで、第一回目の受講中、たまたま近くの席に座っていた私にひどく険しい顔をして汗をかいたエースが小声で質問をしてきたのが知り合うきっかけだった。別に構わないのに、「教えてくれた礼に」と毎回律義にジュースや菓子をよこしてくる。労力と報酬の見合わなさが申し訳なく、ならばいっそ一緒に復習するのはどうかと提案したのは私。面倒そうに、けれど少し神妙な表情で頷いたのはエース。進級ギリギリの単位数分しか授業をとっていないらしい彼なりに必死なのだろう。そうして講義前の昼休みを共に過ごすことが多くなった。
 そんないつも通りの時間が急に変わったことに、私は戸惑う。無言で先を行く背中に「どうしたの」と声をかけたら今度は急停止するものだから、ぶつかりそうになった。少しのけ反るような体勢で私も止まる。黒い癖毛を毟りそうな勢いでエースが頭を強く掻く。なんて分かりやすくイラつきを表現する男なのだろう。「どうしたの」もう一度声をかけると舌打ちが聞こえ、頭を掻いていた手が一瞬でこちらに伸ばされた。







 ある時、トレーに定食を乗せた知らぬ学生が、食堂で件の復習に精を出すエースに親しげに声をかけてきた。食事を始めながらテキストとノートに向かってしかめっ面をしていたエースが、頬袋をパンパンにしたまま顔を上げ「おう」と返事する。友人らしい。「なんだよ、彼女?」私に顔を向けて軽く微笑む彼を、「ばぁか、あっち行け」と言って表情を変えずエースがしっしと追い払う。「ハイハイ。あ、俺、サボ。よろしくな」名乗った友人は自然な態度で去って行った。


「サボ…くん。あれ、友達?」

「幼馴染み。チビの頃からだから、もう兄弟みてえなモンだ」

「ふうん」

「学校まで一緒なんだから、腐れ縁だよなあ」


 サボとやらは洒落た髪形をしていた。金色の、くるくると細かな短い巻き毛。目はぱっちりと大きく、鼻は少し上向きだったけれど筋が通っていて印象的で美しいと感じた。ジャケットを着てスカーフなんか巻いたお上品そうなファッションはお高くとまって見えそうなものなのに、くだけた雰囲気が爽やかで嫌味な感じが無い。むしろ好感を持てた。

 エースと過ごす昼休みに、サボは度々混ざってくるようになった。エースの隣、長机を挟んだ私の斜向かいに腰をおろして「なに、復習?」と講義で配られたプリントを眺め昔話を聞かせてくる。


「コイツ、英語もひどかったもんなあ」

「邪魔すんなって」

「してないって。ひとりごと、ひとりごと」

「うぜえ。気が散る」

「逆に集中力、鍛えられるんじゃねえか?」

「う・ぜ・え」


 二人のやりとりで吹き出す私に、サボはウィンクして笑う。それを見て、楽しませようとしてくれているのだと知り、ほっぺたが弛んでむず痒いような気分になった。良い人だ。
 エースは邪魔と言うけれど、むしろサボは私などよりよっぽど優秀なコーチだった。エースの疑問にするする答える。同じ講義を受けているわけでもないのに不思議で「サボくん、イタリア語できるんだ」と初めてこちらから話しかると、サボは首を横に振りながら「できない、かじってるだけ。でも、少しは解る」と言った。エースほどではなくとも私も外国語が得意なわけではないから、感心して間抜けな声を出した。
 照れたように笑ったサボがふと何事か思い出したように宙に視線を巡らせ瞬きをし、こちらを見て「なあ」と私に手招きする。招かれるまま少しだけ身を乗り出す。エース側の手で自分の口の横に壁を作って小声で何か言っているが、聞き取れない。「もう一回」と首を伸ばすと、手の壁が私の片耳も囲った。


「――付き合ってんの?」


 サボの目が少し細められ、ちょろりとエースを見る。訊かれた意味をすぐに理解し、顔の前に手を立てて小刻みに振ってやる。NOの意。「違うのか。へえ」少し驚いた顔をして手が下ろされた。
 プリントに向かったままエースが「聞こえてんだよ、ばぁか」と聞き覚えのある毒を吐き、サボが肩を竦めて舌を出す。そういえば、初めてこの質問をされた時もエースはこんな調子で流していた。思えばあれは答えになっていない。サボを真似て私も肩を竦めて見せ片眉を上げると、可笑しくなって同時にニヤリと笑った。
 またサボが手の壁を作るので耳を寄せる。先ほどよりもいくらか小さな声で囁かれる。


「“くん”はいらない。サボって呼べよ」


 顔が熱くなった。







 二の腕を乱暴に掴んでくるエースの硬い手の平が、意外にも冷たい。毎日のように履いている気に入りのワークブーツをガツガツ鳴らせ、エースはぐんぐん私を引っ張る。ラウンジを抜け、廊下を行く。目的地があるようには見えないが、一応「どこ行くの」と訊ねてみる。案の定返事は無い。腕が痛い、放してくれ、とは言いにくかった。連れられているのはこちらでも、どこか縋られているようにも感じたからだ。
 中庭に出ると木陰のベンチに座らされ、「そこに居ろ!」と怒鳴られる。そうしてまたガツガツ音を立て、彼は一人校舎に引っ込んでしまう。何で怒鳴られなくちゃならないのだ。呆然としていると、すぐに両手に大きな紙コップを持って戻って来た。片方を勢いよく「ん!」と差し出され、中身が少し跳ねて危うく私の服を濡らしそうになる。ベンチの座面に着地した水分がシュワッと音を立てる。本当に、いったい何なのか。怖々受け取って口をつける。シンプルな甘さが口の中をパチパチ弾く。ちらりと見上げるとエースがぐっとコップを呷るところだった。「あ」。たぶん中身は同じはず。


「ぐえっほ!」


 想像通りにエースが噎せて、口には出さないが馬鹿だなあと思う。何が起きたか解らないが、興奮したまま炭酸なんか一気に飲むから。
 目の前でしゃがみこんで咳をする背中を撫でてやる。苦しさからか汗で少しばかり湿っている。夏が過ぎ去り近頃はめっきり冷えてきたから、風邪でもひきやしないかと少し心配になる。呼吸が落ち着いてきたのを見計らって口を開けると、「さっきの、」と唸るような声でエースに先を越された。


「さっき?」

「ラウンジで、聞いたろ」

「ああ。うん。びっくりした」

「……あれ、サボ」

「…………ん?」

「サボだ、あの話」


 何を言われているのかいまいち理解できず、否、できていたのだろうけど、したくなかったというのが正確かもしれない、とにかく呑みこめずに背中を撫で続けていると、エースの肩が小さく震えだして、俯いた黒髪の先にある地面には小さな丸い染みができていった。
 旅先で、事故に遭って、――ラウンジで聞いた僅かな情報を思い返す。手が止まる。さっきのエースの手の冷たさを思い返す。私も今、そうなっているかもしれない。


「世界まわんのが夢だって、勉強してた。英語も、イタリア語も、きいたことねえのも、とにかくどこの言葉も勉強してた。バイトして、なげえ休みは飛行機乗って、どっか行くんだ。どこのガキがどうだとか、あそこはのんびりできるとか、治安がわりいとか、教育がどうとか、文化がどうとか、よくわかんねえけど、すげー夢中だった。どっかに井戸つくるとか、学校建てるとか、そういうのをやりてえって。俺ァよくわかんねえけど、色々見て、聞いて、知りてえことがいっぱいあんだって、すげえ勉強してた。ボランティアがどうとか、ワークなんとかとか、俺にはわかんねえけど、とにかく、そんな、でも、飛行機が事故るとか、意味ねえじゃん。夢もくそもねえじゃん。行く前から終わってんじゃねえか」


 エースが思いつくままサボのことを話していく。私が知らなかったことをたくさん聞く。なんとなく持っていた好意が、こんなときに膨らんでいく。
 私はたぶん、特別にサボが好きだった。その“たぶん”という薄ぼんやりした部分が、今更無くなっていく。
 知らなかったサボのことを知ることができて嬉しい。けれど知りたくなかったとも思う。知らなきゃ良かったかもしれない。もう居ない人なら、明確な好意なんか持つだけ悲しいじゃないか。どうしてそんなことを聞かせるの、エース。


「夢なんて恥ずかしいから、誰にも言えねえって言ってた。俺とルフィだけ、知ってた」


 ルフィが誰だか知らないが、エースと同様に、家族のような存在だろうと思う。じゃあやっぱり、私に聞かせるべきじゃないのだ。


「でも、今回帰ってきたら、……****には話すっつってたのに」

「え」

「もう、あいつ、馬鹿じゃん。意味、ねえ」

「…………」


 最後の方はしゃくり上げて、エースは紙コップを握り潰してしまった。半分ほど残っていた中身が派手に地に落ちる。膝の上に腕を交差させて、エースはそこに顔を押し付ける。泣き顔を見せたくないのかもしれないが、腕を伝って次から次へと涙が零れてくるからあまり意味は無いような気がする。その水滴に表面を叩かれて、足元に広がる炭酸水が気泡を立てる。細かな泡をまんべんなく眺めながら、サボの姿を思い出した。連休なんかを挟んだ後は顔や手に絆創膏を貼っていることがあったが、それは今聞いた話から想像すると、ボランティア等の作業でこさえた傷だったのかもしれない。一度、指の絆創膏を貼り直してやったことがある。夏も近付く暖かい季節だったが触れた指は冷たくて、少し驚いたら「冷え症なんだ」と苦笑いしていたっけ。
 びゅうと吹いた風が冷たくて、ぶるりと震える。手を置きっぱなしでいたエースの背中は熱く、たった一度触れたサボの体温も、あの日の気温も、今日とはまるで逆だ。
 チャイムが鳴る。中庭には元より他の人は居なかったけれど、校舎内から滲んでいた休み時間の騒々しい空気が一変して静まり返り、この空間、私達だけが切り抜かれて置いてけぼりにされたような錯覚を起こす。ゆっくり響く機械越しの鐘、風、エースの嗚咽や自分の脈動、全ての音が妙に遠く聞こえた。







(企画サイトif様に提出しました)

(2011年10月6日)


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