(※死ネタ前提の暗い話になっています。苦手な方はご注意を)




























 色々がかったるくなってしまった。何が、と限定などできるものか。そうすることすらかったるいんだから、始末なんてつきやしない。
 目を開いたらそのまま正面、高い高い遠くの方に、ムカつくほど晴れ渡る青が見えればいいのに。そう思いながら、しかし目はひらかない。ひらけないのではない、自分の意志で断固としてひらかないでいる。だって開いたところで見えるのは、ここが水中を進む潜水艦故、胡散臭く青白い照明が人工的な光を灯す低く清潔な天井なのだから。あの照明の寿命がもうすぐ尽きる間際ならいいのに。それなら望むものとまったく対照的で、いっそ笑える気がする。
 ああだったらいい・どうだったらいい、と望みは尽きない。けれど今はどれも叶うことがない。叶わないから望む。以前なら、望みを望みと認識する前に動き出していた。自分という人間はそういう性格なのだ。幼い頃からそうだった。
――旅をするうち、いつ頃からか、この肉体は指の先から順を追って、徐々に自由がきかなくなってきた。原因は解らない。さすがは未知ばかりの新世界とでも言おうか。名医である我らがキャプテン・トラファルガーですらお手上げで、日に日に不便が増えていく私は元より大して役に立つ人材でもなかったのだが、輪をかけてまったくの役立たずと化し、着々とお荷物になっていった。この病の進行(というより退行と言うほうがしっくりくる)は止まらず、今では排泄も自分一人では満足にこなせない。散々嫌がったカテーテルと汚物袋は、もう体の一部だ。服やシーツを汚して、いちいち清潔なものに替えられる面倒さよりはマシだと思うようになった。この状態で、自分で叶えられる望みというのは随分と少ない――
 だから、もう望むことには厭きた。何にもならない。想像力以外に得るものがない。そんな力がついたところで、現実では叶わないのだということを、より強く感じてしまう。虚しくなるばっかりだ。


「想像で胸が膨らめばいいのに」

「巨乳に憧れがあったのか。意外だな」

「…………」


 くそったれが。
 ウケなくてもいいというスタンスで下らないジョークを言う男に悪態を思い浮かべるが、それを吐き出すのもかったるく、溜息を漏らすことすら煩わしかった。
 彼は大抵の用をクルーに任せて、できるだけこの部屋で私を見た。診察であり、看護であり、観察であり、そして、ただそこに居るだけでもあった。ベッドの横に椅子を置いて、新聞や雑誌や難しそうな本を読む。新聞以外は大して急を要して得る情報ということはないように見える。つまり暇つぶしをしているように見える。暇ならこんな所に居なくたっていいのだ。あなたはここの船長なんだから、することはいくらでもあるでしょう。この役立たずに必要なのは汚物袋に点滴に寝返り。他人が四六時中ついている必要は無いのです。
 さて、先刻の笑えないジョークに何の反応も示さない私に、男はどうしたかというと「口を聞け。自分は元気だ、ってフリをしてろ」と低い声で命令をした。たぶん冷たい視線も向けられているけど、こちらは目を閉じているから知ったことではない。
 何度言われたろう。「病は気から」。そんな精神論を嫌うこの男が、口酸っぱく同じことを繰り返す。毎度苦々しく。けれど切実な感じで。


「どうせ、フリだけで……」

「実際は“元気”の“ゲ”の字も無いからな」

「あなたがそれを言うの」

「事実を曲げても意味は無い」

「だったら、フリだって、」

「フリはフリだ。“フリをする”って事実の話だ。お前に必要だから、しろと言ってる」


 これも飽きるほど繰り返してきた会話である。飽きても他に話題が無い。ベッドから離れることが難しくなった私に、新しい出来事などそうそうありはしないから仕方ない。
 少し喋っただけで乾いてしまった唇を舐めるが、話題同様この舌も大した水気が無かったので、粘膜と外皮が引き攣れ合うだけに終わり気が滅入る。男が動く気配を感じたすぐ後、口の端に細く硬いものが軽く押し付けられてきた。よく知った感触、ベッドサイドに常備されている水差しに違いない。それが傾けられ、程よく少量の水が注ぎ込まれて口内が潤わされる。舌が充分に水分を纏ったので、水差しが離れていってから、ようやくまともに唇を舐め濡らした。
 こんな所作は誰もが何気なくする些細なものだろうに、この男はこんなにもすぐサポートを施してくれる。よく観察しているものだと感心する。
 そして同時に不快になる。
 何をするにも不自由を覚え、それは毎日毎日増えていって、気分は一向に上向くことが無い。今なら、そう、口なんか聞かなければこんな小さな挫折感を味わわなくて済んだのだと思う。男が無駄なことを言わなければ、ただ私は独り言を呟いて黙っていられたはず。


「ふ……ぐぅ……ぅ……」


 たまらず惨めな声を漏らして泣いた。けれど涙を外に押し出す力も少なく、鼻の奥に水が来る。すぐに喉に塩辛さを感じて咳込むと、また男の手が労ってきた。仰向けだった体をスムーズに横向に直され、背中をさすられる。そんなことはしなくていい。そんなことをされなければ、もしかして私はこんな室内で溺れていたろうか? いいじゃないか、それで。もう、――


「放っておいて!」


――どんなに困っても苦しんでも。
 叫ぶようにそう告げると、低い声をなおさら低くして「死にたいのか」と問われる。私は自分でも驚くほど、打って変った平坦な調子で「うん」と返事をしていた。男もそれが意外だったか驚いたのだか、背中をさする手が止められた。左胸の裏。心臓のうしろ。意図的にそこで留めたんだろうか? 薄い寝間着越しに感じるその手を以前は冷たいと感じていたのに、今は熱いとすら思う。私の身体は、そんなにも弱っている。


「……目を開けろ」

「嫌です」

「こっちを見て、もう一度言ってみろ」

「嫌です。もう、嫌だ」


 マットが歪んで、瞼越しに世界が暗くなるのを感じた。


「****」


 とんでもない至近距離で呼ぶ声が聞こえて、ああ、たぶんこれは男がこの木偶の棒をその身で覆って見下ろしているのかと想像し、さらに閉じた瞼に力を込める。
 もう、疲れるのも、失くしていくのも嫌だ。嘘じゃない。嘘じゃないんです。
 ねえキャプテン。だからもう、すっかり諦めさせてください。そんな風に、ここに執着を持たせないで。

(2012年12月12日)


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