「おお寒い」

「雪が降ってりゃ当然だ」


 当たり前の感動をいちいち繰り返し口に出す女の習性はスモーカーにとって不思議かつ面倒なものであった。けれど彼は眉も歪めず(かといってにこやかでもない顔で)短い相槌を打ってやる。そうした心遣いは少なくとも彼にとって相手への好意を示すものだったが、たった今それを受けた****にはそう取れたことはない。むしろおざなりに感ぜられ、彼のテリトリーに囲いがあったとするなら、そこから締め出されたような心地になる。これは****の一方的な感覚で、スモーカーはそれに気付かない。それほど些細な事だ。些細だが、そうした“ずれ”を幾度も繰り返せば膨大な量の不快が重なり、いつしかこんもりとした黒い山が胸の中にそびえ立つ。
 二人は恋仲であるが、今日その関係を終わらせる。彼女がこれまでにそうした小さな不快感を明示したことがあったなら、こんな日を迎えなかったかもしれない。
 その都度言ってくれればいいだろう、と男は思う。女が傷付くポイントなど思いもよらぬところにあるわけで、言われなければ気付くはずがない。言われたとて理解はできないだろうけども、それでも傷つけた事実への謝罪なりフォローなり、できることはいくらでもあったはずなのだし。
「恋人なんて言えるような甘ったるい仲じゃあないわね」と****はこの数年で何度も繰り返し、スモーカーは何度も頷いた。その言葉を 自分達の関係が恋愛より家族愛に近しいものである と捉えた彼は愛情表現として肯定していたのだけれど、彼女はいつだってこれを否定してほしかった。たくさんの言葉を交わして肯定も否定もさらけ出し、喧嘩を通して愛を改め続けるような、そんな甘ったるさを求めていたのだ。口下手な男を愛してしまった甘え下手な女の小さな悲劇である。そもそも喧嘩なんてしたこともない。****がふっかけようとスモーカーは相手にしない。平和が何よりであることは共通の意見のはずなのに、ただただ刺激を欲する****が欲求を充たせず癇癪を起こしてはスモーカーを閉口させた。


「ねえ、怒った?」

「いや」

「嫌いになっちゃった?」

「くだらねえ」


 その度男の機嫌をうかがうような甘い声で擦り寄り、女は愛を問う。これに手を差し伸べることはないが背を向けるようなこともなく、スモーカーはいつでも****に体の正面を向けて佇んだ。殴るでも抱きつくでもいい、好きにしろと思っていた。
 けれど、まさか逃げることを選択するなんて。
 昨夜、なんとも低い真剣なトーンで別れを切り出された瞬間の、鼓膜をつんざくような静かで尖った耳鳴りを、これから先スモーカーはずっと忘れないだろう。
「何故」と問うても静かに涙を零しながら「つらい」としか答えない彼女は泣き疲れ、背中を向けて一人ベッドに潜り込んでしまった。 俺がお前に一度でもそんな風に背を向けたことがあったか! と危うく怒鳴りつけそうになったが、できなかった。吐息も聞こえてこないような沈鬱な眠りについた小さな背中が気の毒で、どうにもしようがなかったのだ。何か答えは見つからないものかとおぼろげな記憶を掘り返し、彼は寝ずの一晩を明かした。


 冷えきった手のひらを擦りあわせ、そこへハフハフと息をあててはまた擦り合わせる。歩き出してから****はずっとそれを繰り返していた。昔、プレゼントされた手袋をうっかり失してしまってから頑なにこのスタイルを保っている。


「手袋をしろ」

「嫌ァよ。落っことして失すもの」

「その時にゃ買ってやる」

「あーあ。あのおそろいのグローブ……」

「……」


 遠い目で後悔をまるごと滲ませた大きな溜息を吐かれてしまうと、昨晩の続きを感じてスモーカーは黙るしかない。
 彼女の失した手袋は、彼が日頃はめているのと同じ色・素材で作られたデザイン違いの華奢なものだった。末端冷え性のくせに寒い日も素手を剥き出しにしているのを見かねたスモーカーが、彼にしては珍しく気をきかせてラッピングなど施して贈った。それは質素な包装紙に同色の細い紙リボンがかけられただけのものだったけれど、涙まで浮かべながら「生涯大事にする」と****が喜ぶものだから、これもまた彼にしては珍しく照れたように頬をゆるめた。しかし慣れない彼女にはちょっとした動作をするにも手袋の着用は不便なもので、少しの時間だけ外してコートのポケットにおさめていたのを、いつの間にか落としてしまったというわけだ。
 失くしたことに気付いた日の****の落ち込みぶりときたら、それはもうスモーカーの庇護欲をこれでもかというほど揺さぶったものだ。それでもこの男の強面の仏頂面は崩れないのだから、彼女がそれに気付くことはない。
 遠出をしてまで犯罪者を追い回すスモーカーは行く先々の海軍駐屯所の簡易ベッドを借りたり、時には野宿することもあるような根を張らぬ男だ。とりあえずの帰還先として海軍本部近くの島に部屋は確保しており、たまに戻る時には其処を恋人と共に過ごすための空間として使ってきた。そんな生活だったから、この関係は何年も続けたからといって熟成されたものではないかもしれない。恋仲のスタートにありがちな甘ったるい期間も、倦怠期もない。相手の顔色を見るだけで意思疎通をはかれるような関係を築きたいと思うのはお互い様だけれど、****の心は折れてしまった。


 女の指先が、冷気を取り込まぬようぴっちり着込まれた男のジャケットの袖口とグローブの境目に潜り込む。


「っ、おい」

「ふふ、あったかい」

「…冷てえよ」

「冷たいよねえ」


 離す? と訊ねながら答えも聞かず自らゆっくりと離れていく指を、スモーカーは咄嗟に逆の手で引き止めた。そうしなければならないような気がした。それは些か乱暴な動きだったので、****は驚きに眉を跳ね上げさせた。
 分厚いグローブが生身の甲をのぼって細い手首を掴む。それを触れられた側のグローブの中へと押し込ませ、中にあった自らの手は入れ違いに引き抜いていく。途中で交差した温度のあまりの違いにスモーカーは舌を打った。細い指一本一本が収められたのを確認し、そこを大きな手のひらで力強く握りこむ。


「これじゃ逆手で変な皺になる」

「構わねえ」

「熱い」

「冷えすぎだ」


 氷のような冷たさを、熱で溶かしてしまいたい。


「どうしたのよ、急に、こんな……」


 心から不思議そうな表情で視線を手から離さずにいる彼女の様子に、ふとスモーカーは思い至る。


「…****」

「うん?」

「お前、俺がお前を要らねえと思ってるなんて考えてるか?」


 弾かれたように顔を上げた****の瞳が肯定を滲ませているように見え、スモーカーは怒りに近い感覚に襲われた。何に対しての怒りか判断する間もなく、衝動の赴くまま彼女の頭を空いた手で抱え込む。心臓の脈打ちを伝えたくて胸へと耳をあてさせる。また強引な動きを見せた男に戸惑い強張った****の体から、ゆっくり力が抜けていく。彼の望むように彼女ははっきりと音を聞いた。
 数十秒か数分か、しばらく黙って同じ姿勢のままでいた。ずいぶん遅れて「ちがうの?」と女が問う。男は微かに舌打ちをこぼして「ああ」と返事をした。
 つまりはスモーカーにとって****は必要な存在であるということだが、それを****はもっと直接的な言葉で伝えてほしいと思う。けれど、いつもと変わらぬようなたった一つの短い肯定でも彼女の心は確かにじわりと温もったので、「じゃあ、まだ居てあげる」と昨晩の宣言を撤回することにした。頭上から降ってくる「そうしろ……してくれ」と言う小さなボリュームのバリトンが微笑ましい。グローブ越しに握られた手が、すっかり彼の温度に馴染んでゆるやかに汗ばんでいた。

(2012年2月1日)


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