纏わりつく空気よりは少し冷たいカウンターに頬をあて、ぬるくなれば逆を向く。そいつを繰り返しても一向に涼しくなるわけはないのだが、こう暑いと僅かでも救いが欲しくなるものだ。 「今日もあっついねェ……」 「んー……」 片手に持ちやすいよう新聞を縦長に折るのは彼女の長年のクセらしい。****さんはそれを眺めながら、俺の訴えをテキトーに流す。 ****さんの店は常連が何人か昼飯を食いに来るランチタイムを過ぎれば閑古鳥があくびするほどの暇さで、だいたいは俺だけが残って彼女とだらけた時間を過ごす空間になる。彼女も俺も仕事中だが、まあ良いんだ。やらなきゃならん事さえビシッとこなせば、概ね問題ない。会話はあったりなかったり。いくら若いカップルだって四六時中おしゃべりしてるもんでもないだろうし、こちとら若くもなけりゃ、そもそも大しておしゃべりな気質でもない。俺の呟きに対して相手をしてもらえないのはいつものことだ。 「暑い、暑い、暑い……俺、溶けちまうんじゃないの?」 「……わかったっての」 繰り返し訴えると、ようやっと活字から気を逸らせた彼女の視線が俺に向く。 カウンターに頭を預けたままの体勢で口だけで笑ってみせると「大げさ」と眉を顰めて鼻を鳴らされた。 「夏島なんだから、我慢しな」 「わかってるよ」 「わかってんなら、わざわざ言わないの」 彼女の言うとおりこの島は常夏だけれど、多少の季節変動は存在する。今は雨季。じっとりした空気は重苦しくて、こんなときはこういう島でだって暑さを話題にするのはおかしかないのだ。現に****さんだって、普段に比べて少々イラつきやすいように見える。 「****さんさ。どーしても我慢できないってぐらい暑い日、どうしてんの」 「どうもしないよ。ひたすら我慢」 「あらら……どこぞの修行者かって」 「ふはっ。そんな立派なもんかい」 笑いながら、薄い素材で仕立てられたシャツの胸ポケットから煙草とマッチの箱を取り出す。慣れた仕草でそれぞれ一本引き抜いて、咥え煙草で一服の準備をする細い指。湿っぽい空気にマッチも役割を渋るが、何度か擦って白い紙巻きの先端を焦がすことに成功した。 用の済んだマッチを灰皿に擦り付ける手を目で追うと、ふと近くに置かれた煙草のパッケージに注意が向く。それはいつもの黒いチープな造りの箱じゃなく、ふわっと鼻に届くミントに似た香りのイメージに沿うような、白地に緑のラインが入った爽やかなデザインだ。 「変えたの?」 「なにが」 「煙草」 「ああ、これね。――あ、ごめん」 軽い謝罪の言葉に身を起こして肘をつく。今度は俺が「なにが」と訊ねる。 「さっきの、撤回。どうもしないって事ァなかったね」 「うん?」 「たまんなく暑いと、口の中ぐらいスッとさせたくなるんだわ。たまに、メンソールにすんの」 爪の先で箱をトンとつつきながら「これ」と言う。 「気休めだけどね」 「へえ」 彼女ほど吸わない俺には、よく解らないことだ。 活字への興味はすっかり失せたのか、グラスを並べた棚に新聞を放って「あっついねェ」と今度は彼女が俺の呟きを繰り返した。 ボタンを大きく開けたシャツの胸元をつまんでパタパタやってる隙間から、鮮やかな緑色をしたキャミソールに隠された****さんの薄い胸が僅かに覗く。歳のために柔らかくなった皮膚や筋が目立つ首からそこへ、ゆっくりと汗が伝い落ちるのを見ているうちに、俺の手はいつの間にか細っこい手首を掴んでいた。「なんだい」「うん」無意識だったから、訊かれても答える理由が無い。 握ってしまった肌は、この暑さで汗ばんでいる。緩く能力を発動させて、その水の粒だけを凍らせてみた。 「! うわ。本当に凍るんだねェ」 「見せるのは初めてだっけか?」 「戦か何かで放送されてんのは見たことあるけど、実際にはね」 「そうか。……気持ち悪い?」 「いや、気持ちいいよ」 「そりゃ良かった。こっち、いらっしゃいな。もっとしてあげようじゃないの」 背筋を伸ばしていた体を傾けて、彼女もカウンターに肘をつく。 両手に触れて、凍らせすぎないよう気をつけながら徐々に腕を登っていく。肩を過ぎて首に触れると、「ひゃっ」と珍しく高い声でくすぐったがるのが可愛い。 「風邪ひいたときでもそうだけどさ、ここ冷やすと、体温って下がりやすいんだぜ」 「あー」 左手を首の後ろに移動させると彼女の瞼が気持ち良さそうに閉ざされる。右の指先で耳殻をゆっくりなぞり、小ぶりなピアスを揺すってイタズラすれば、薄い唇が愉快そうに歪められる。 それを見た俺は、つい、彼女の顎を掬い上げて橙色に塗られたそこに口付けてしまった。 深めたりしないし、動きもしない。そんなものでも、これが****さんとの初めてのまともなキスだもんで、俺の心臓は妙に強く脈打っちまってる。 これぐらいでヘマすることもないだろうが、万が一を思って能力をひっこめる。首を支える手のひらで氷になっていた汗の粒はすぐに溶け、彼女と俺の肌をじわりと濡らした。 目の前の睫毛が揺れて、開きそうな動きを見せる。俺は突き出すようにしていた顎をほんの少し退いて唇を離した。まだ至近距離にある彼女のそこが、吐息だけで「バカ」と言う。 「口紅、ついちまうだろ」 「そんな安っぽいの、使ってねえだろ?」 「どうだか」 自分の唇を舐めてみるが、化粧品が付着したような味はしない。その様子をじっと見ていた****さんに「ほら、ついてない」と言えば、鼻を鳴らして笑われた。俺も真似るように口角を上げる。 「なあ、このまま口の中まで冷やすってのはどう? スッとするどころじゃないぜ」 「ンなことしたら、アンタの舌『溶けちまう』んじゃないの」 さっき俺がダラダラしながら呟いた戯言を、小馬鹿にするみたいに取り上げられる。イタズラっぽく細められた目と吊り上げられた片眉が、憎たらしいのに魅力的で参ってしまう。 こんな提案をしておきながら、俺は手をひっこめて彼女を解放する。もし頷いてくれるなら喜んで実践したいところだが、あしらわれるのが目に見えるから、先回りして本気半分の冗談にしちまうのだ。 「俺は“氷人間”じゃなく“氷結人間”なんで、溶けたりしません」 「ふうん。ならアンタの暑がりっぷりは、やっぱ大げさだね」 「あらら。……いや、でも、****さんになら溶かされたいかも」 彼女の手が俺の頬に伸びてきて、つねりながら「バーカ」と言ってまた笑う。予想通りの柔らかい拒否。そのまま髪を掻き上げられて、離される。 いつも通りにシャンと背筋を伸ばして、****さんが立ち上がった。「どうしたの」訊ねるが、無視される。カウンターの下に潜り込んで、何か探り始めたようだ。すぐに彼女の手だけがにゅっと現れる。 トン。トン。トン。 軽快な音をたてて、俺の目の前にフルーツやヨーグルトが並べられていく。 「あの、これ……?」 「昼間っからディープってのはカンベンだけど、『中まで冷やす』ってのは賛成」 「え」 「これ凍らせな、クザン。スムージーつくろう」 材料を出し終えたのか、手に続いて彼女の顔が現れてカウンターに顎が乗る。ニッと歯を見せて「ね」って笑われちゃったら、そりゃあ言うこと聞いてあげたくなるでしょうよ。 「しかたねえなあ」 ところで。 気にすべきは彼女の言った「昼間っから」ってとこだ。それはつまり、適した時間ならOKなのだと受け取ってかまわないんだろうか。 食材に触る前に渡されたおしぼりで手を清めつつ、そんなことを考えてゴクリと唾を飲み込む。それに気付いた彼女が「楽しみ?」と訊いてくるので「当然」と返し、そして「美味いよ。すぐだから、ちょっと待ってな」って――彼女が言ってるのは冷たいドリンクのことだが、下心のスイッチが入ってしまった俺はそれを意味深に捉えて必要以上ににやけてしまう。 「俺、この後の仕事すっごく頑張れちゃいそう」 「あっそう。そりゃ良かったね」 (2011年7月21日) ←list/cover/top |