(※ ※ ※ ←このマークごとに視点が交互します)















 まあ、大した期待はしてなかったんだ。女の家に泊まるったって婆さん相手だもの。
 ただ、多少の触れ合いぐらいはあるんじゃねえかなと、そんな淡い期待だけはしていた。していたのだけれども。


「あらららら…」


 脱衣所から首を伸ばし、ソファで安らかに寝息をたてる****さんを視界にとらえて自然とそんな声が出た。
 彼女の店は二階が住居になっていて、店仕舞いを手伝った後に初めてお邪魔させてもらった。
 恋人なんて関係を結んで一ヶ月。名ばかりのこの関係もようやくそれらしい雰囲気をつくれるかもと心弾ませたのだが、生憎お相手は眠りの旅へ出てしまった。シャワーを先にもらってる間そんな予感はしていたのでさほど落胆することもないが、お預けを食らった犬ぐらいの寂しさは感じてしまう。
 あわよくば髪なんか拭いてもらえたら…なんて考えていたが甘かった。今日の彼女は店でアベックの長居に気を遣わされて殊更疲れてらっしゃるのだ。文句は言うまい。
 水を含んでうねりの強まった髪から雫が落ちて、床でピタンと音が鳴る。
 精々寝返りの身動ぎぐらいしかしない人を見つめてたって仕方ないからとりあえず濡れた体をどうにかしようと首を引っ込め脱衣所に振り返った。
 失礼して、勝手に戸棚を開けさせてもらう。同じ幅で畳まれて綺麗に並べられたタオルを一枚掴み、柔らかな手触りが気に入って広げる前に顔を埋めた。まったりしたシトラス臭を吸いこむ。借りたソープもこうだった。彼女に近寄ると漂う果実の香りはこれなのだと理解して自然と口角が上がってしまう。同じ香りを纏うなんて、幸せだ。
 にやついたまま頭から足まで大ざっぱに水分を拭き取ってふと気付く。そういや泊まるにしたって寝巻が無いわけだが、彼女のものを拝借したところで体格差のある俺の体が入るわけもなく、どうしたもんかと途方に暮れる。まあ、ここの気候は幸い常夏だから裸で寝たって問題無いのだろうけども。これで彼女が起きてたなら多少のロマンもあるだろうに…
 虚しい想像を巡らせ始めた頭を振って顔を上げると全裸の俺が鏡に映って、「は。マヌケ」と口に出す。湿気たタオルを腰に巻きつけ脱衣所を出た。





※ ※ ※





「先にシャワー浴びたら?」


 仕事終わりは汗を洗い流してからスッキリ休みたいもんだろうと、いたって真っ当な提案をしただけだ。
 でもクザンには…まあ私にも、少しばかり間が悪いようだった。のんびりしたいつもの姿勢をピリッと緊張させて、平静を装うみたいなわざとらしい声で「ん」とだけ返事をされた。
 ああしまった。そういうつもりじゃない。
 こんな関係を許しておきながらあの子にゃ悪いと思うけど、私にゃそろそろそういう色事は不要なんである。
 自分が今いくつかなんてわざわざ数えなくたって、誰に婆さんと呼ばれようが自然と受け入れるようになってきている。それだけ年を食った。
 一般的な感覚で考えてみるなら、年寄とセックスってのは想像しにくいものだろう。その感覚に倣って相応しいほどなのだ、私とクザンのそれというのは。そんな相手によくぞそういう気の起きるものだと感心する。
 求められていることは明白なのだ。したい、と直球で言われたことがある。正直なところ嬉しいと言えば嬉しいし面倒と言えば面倒に感じる。男女が繋がるには準備が要って、この身体は尚更だ。応え難い。もう十年若かったなら…などと思うあたり満更でもないのは自分で知れるのだが、こればかりはどうしようもない。
 あの子の望みを知っていたってこっちがこんな風なのだから、もうちょっと言い方に気を使うべきだったなと思う。「先に」なんて。後から何かあるようじゃないか。そう思ったって今更だけれど。
 水音が止んでギクリと背中が硬直した。扉の開く音。あの長身が背の低い浴室から脱衣所へ潜り出る気配。
 どうにせよ、こちらにどうする気も無いのだから毅然としてりゃあ良かったのだ。良かったのに。視界に入ったソファへ咄嗟に身を沈めて狸寝入りしちまったのが、どうも悪かったかもしれない。





※ ※ ※





 近寄ってみると、生成色のホワホワした手触りのカバーで覆われるソファはいかにも安らげそうだと思った。これは睡魔に襲われても仕方ない。惰眠好きの俺が言うんだから間違いない。
 彼女はそこに足を上げ細い体を丸めるようにしてスヤスヤ眠っていた。いくら細いったって膝を抱えるようなその格好はちょっと窮屈そうに見えるんだが、猫みたいにそれが落ち着くのだろうか。俺だったら背も足も伸ばして悠々と転がりたいものだけど。
 そんなことを思いながら空いた片側に腰を下ろす。そして自分で言うのも情けないが、怖々といった感じで彼女の踵に手を伸ばす。
 前に首に触れられた時にも感じたが、この人の肌は末端に近いほどやはり冷たいなと思う。俺が風呂上がりだからって関係ないほどだ。
 それにしても、と何やら胸の中でつっかえが生じた。
 人というのは眠る時、多くは体温が上昇するものだ。それに個人差があるのは然るべきだが、この人のこの温度は身に覚えがある。首に触れられた、あの温度とあまりに変わらない。
 華奢で乾いた踵を片方の手のひらでやんわり包み、親指を土踏まずに置いてみた。規則正しい呼吸に暫くじっと耳をすまし、細く息を吐くタイミングでそこをぐっと指圧してみれば気付いてしまう。不自然に吐き出された息の量と体の強ばり、****さんの寝たふりに。


「……」


 浴室に向かう時、ついほんのり抱いてしまったヤらしい期待を感じさせてしまったろうか。これはきっと、それを回避するための……
 ――だけども俺はそれに腹を立てる気にはならなかった。むしろ気を使わせてしまったなと申し訳なく思う。
 行為を素直に求めすぎたのだ。無理なら無理と言ってもらえればいつでも退く準備が俺にはあるが、この人もきっと俺を好いてこの関係におさまってくれた。体が無理でも気持ちの方で簡単につっぱねられないのだろうと想像すれば、いっそこの寝たふりを可愛くすら思えてしまう。
 狸寝入りに騙されたふりをして、そのまま足をマッサージしてやることにした。「おつかれさま」といかにも起こさないようにしている風な呟きを口にしながら。
 足の裏からアキレス腱を通ってふくらはぎまで――これより上は俺が盛っちまうから進まずに――撫でては圧してを繰り返す。じわりじわり湯上がりの俺の温度と冷え性の彼女の温度が馴染みだして、冷たいだの熱いだのと余計な感覚は失われていく。そこにあるのは感触だけだ。自分と違った肌の、肉の、筋の、骨の。随分とクリアに。
 そうするうち彼女の身体から緊張が解けていくのが手で感じとれて、ふっと口角が持ち上がる。
 愛しい。愛しいぜ。うん、いとしい。
 はっきりとそう思えば、ぐっと喉の奥から何やら迫ってくる。そいつをため息で落ち着かせるつもりで口を開けばポロっと「好きだ」なんて零れ出た。あらら。それも明瞭な発音で。
 どうにも、こんな触れ方をするだけで俺は胸のあたりが絞られちまうようだ。そいつは吐き気に似ていて、想えば想うほど口から出さなくては堪えられないんだからよっぽどだ。
 それに任せてまた呟く。「好きだ」。言いながら体を伸ばして彼女を影で覆ってしまう。肘掛けに乗せられた頭の両脇に手をついて、俺は何がしたいのか。
 襲うつもりは無い。無いのだから、このまま体を落としてはいけないと自分に言い聞かせる。
 この人はまだ起きていて、この告白を聞いているんだろう。そのまま寝続けてくれて構わないと思う。まともに向き合われていたら、シーツの上でもなけりゃ俺にはちょっと言えたもんじゃない。





※ ※ ※





 この子のこんな真剣な声を初めて聞いたように思う。関係は置いといて、付き合い自体は何年もあるというのに妙な感じだ。
 枕代わりの肘掛けに重みがかかって少し歪んだ。瞼の向こうの微かな明かりが遮られるのと、湿ったような温度に、嗅ぎなれたシトラス。目を閉じているからそれらを鋭く捉えてしまう。足元にいた男が体を伸ばして、この老女を覆っているのだ。
 足を掴まれた瞬間はヒヤヒヤしたが、「おつかれさま」と労るように揉みほぐしてくる手に気は落ち着いたのかなと思った。けれど、唐突にまともな告白を呟かれて今の状況だ。何に高ぶったやら。


「好きだ」


 ああ、また。その声、止してくんないだろうか。わざわざ寝たふりなんかして誤魔化した欲が目を覚ましちまうだろ。
 ピタン。
 冷たいものが頬に一粒降ってきたと思う次に、温く柔い感触が肩に触れた。それはすぐに離れて二の腕に触れる。そしてやっぱりすぐに離れて肘に移り、ちょん、ちょん、ちょん、と上ってくる。
 その間も時折ピタン、ポタリ、と滴が落ちて腕を濡らしてきていた。落ちた水滴に気付く度、柔いソレが吸い取っていく。
 やがて肩まで戻ってくると、最初に落ちた頬の滴に気付いたらしい。なにか迷うようなちょっとの間を置いてから、ゆっくり触れてきた。
 ちゅ、と小さく吸い上げる音。そこを中心にして肌がざわつく。
 柔さは長居せず離れていくと、肘掛けを歪ませていた重みも遠退いていった。
 その動きに合わせ自分も目を開いて顔を向ければ、ほんの少し驚いたように見開かれた瞳に出会う。その両隣でいつもゴワゴワふわふわ膨らんでる波打つ黒髪が、たっぷり水を含んで重そうにうねっていた。


「……す、」

「髪、」

「え」

「濡れっぱなしにしてんじゃないよ」


 あんまり似合わない照れたような顔をしたクザンがまた口にしようとした言葉を遮ってやると、目をぱちくりさせて「ああ」と決まり悪げに首を掻く。その仕草がなんだか可愛くて、ぷっと吹き出してしまった。


「笑うなよ…」

「いいじゃない。可愛がってんのさ」

「バカにしてんのの間違いじゃねえの」

「可愛いほどそういうもんだ」

「ちぇ」


 ガキが拗ねるのを真似るみたいに口を尖らせる様はわざとらしくて生意気だ。ふん、と鼻を鳴らして片眉を上げ「拭いたげるから、新しいタオル持っといで」と顎で脱衣所を示せば、にやっと笑って立ち上がった大きな背中はやたら嬉しそうに見えた。

(2011年2月5日)


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