久々に訪れる見慣れた町の店並びは夕刻の稼ぎ時に向けて相変わらず活気付いていた。それを眺めながらぷらぷら歩いて途中の細い路地を曲がり、小さな家の前で足を止める。家に見合った小さな窓は閉められているが、カーテンが開いているからどうやら家主は居るようだ。ポケットから合鍵を取り出し、物音をたてないようにお邪魔する。
 この家は土足厳禁だからサンダルを脱ぐ。以前うるさく言われたので、脱いだもんを揃えておくことは忘れない。
 そう長くはない板張りの廊下の突き当たった部屋だけが、西日で明るい。そこに裸足で踏み入ると毛足の長いカーペットの心地よい感触がした。窓際に置かれた背の低い机でセカセカと書き物に夢中な家主である女の姿を見つけて、そっと近寄る。


「精が出るね、お嬢さん。俺と一服入れないか?」


 潮のにおいが染み込んだ黒い幕で彼女の体を覆った。こうするのが俺だけだといい。
 作業に没頭する意識をこちらに向かせたくて、長年愛用した外套の端を摘んで影を落とす。彼女のペンを握る手が止まる。チラリとこちらに振り返った顔は、少々疲労が滲んでいるのがセクシーだ。対照的に色気の無いデザインの眼鏡が鼻の上にちょこんと乗っている。そいつに俺は多少なり欲情したというのに、彼女の口からは久々の逢瀬に似つかわしくない溜息が漏れた。


「――あと少しなんで、大人しくしててもらえませんか」

「どのくらいだ?」

「30…いや、20分」

「そのくらいなら今すぐ手を休めたって大した違いじゃないだろう」

「…一度でもそれを自分に許せば、甘えは後を尽きなくなります」


 だいぶ深刻そうな伏し目に了解せざるを得なかった。彼女が何を生業にしているかなんて俺はよく知らないが、それは彼女を形成する大事なものなんだろう。解ったよ、とこめかみにキスを落として影から解放してやる。ホッと息を吐くのが聞こえた。
 さて、少しと言ったって待つだけの時間は退屈だ。どうしたものか。いつもは彼女が淹れてくれる茶を、俺がチャレンジしてみようかな。ならば茶葉を入手しに行こう。決めてクルリと背を向けた俺に「どこ行くんです?」と少し焦ったような声色が届く。帰ってしまうと思ったのかもしれない。「集中の邪魔にならないようにな。すぐ戻る」と言ってやれば、またホッと息を吐くのが聞こえた。そっけなく仕事を優先するくせに、可愛い女なのだ。
 また外に出れば商店の活気は最高潮といったところだ。厳つい声を張り上げて、男衆が魚や野菜を叩き売る様。


「おう久しぶりだな赤髪さん!このマグロどうだい、立派なもんだろう?安くするよ!」

「ああ、こりゃデケエし美味そうだ。でも、また今度な」


 船に戻るんなら買ってっても良さそうだが、今日の寝所は違うのだ。そんな雄々しいもんを土産にするには彼女の部屋はちと狭い。断ると「そうかい、またな!」とさっぱり諦めてまた元気に客引きを始める爽快さ。こういうのが俺は好きだ。顔が綻ぶ。
 アチコチで似たようなやりとりを繰り返して、目当てのものが売ってそうな店を探す。店の並びが終わってしまうかというところで、ひっそりと経営される女好みそうな店を見つけた。OPENの札がかけられているのに閉められたドアを引くと、軽やかな鈴の音が頭上で鳴る。そうして目の前に広がったのは色とりどりの装飾的な生菓子の群れだ。こういう店はあんまり慣れねえから、どこに視線を留めればいいのかよく判らない。
 ちょっとばかり途方に暮れてぼんやり店内を見回していると、奥の方から目がクリクリしている女の子が控えめに顔をのぞかせた。ちょっと震えているように見える。こんなナリしたオッサンなんか滅多に来ないんだろう、怖がっているのかもしれない。


「…いらっしゃいませ…」

「うん。…恋人への土産にしたいんだが、俺はこういうのがよく判らないから、ちょっと相談に乗ってくれねえかな?」


 極力優しく言ってやると、そっと前に出てきてくれた。ごくりと唾を飲んでるのが可笑しい。暴れたりなんかしねえのにな。


「ど、どんなものを…?」

「あー…書き物をして疲れてる様子でな。体と気が、休まりそうなやつを」

「こちらは…どうですか」


 ぷにっとして柔らかそうな小さい指がブルーベリーパイを指す。「疲れに効くもんなのか?」と訊くと「ブルーベリーは目に良いと聞きます」と答えられる。ああ、書き物で、目がな。なるほどな。じゃあこいつをもらおう。財布を取り出す。


「ああそれから、葉っぱなんて売ってねえかな?紅茶のさ」

「あ…こちらに…ティーバッグですけど」


 缶で作られた小さな山を示される。うーん。本当はアイツの見よう見まねで葉から淹れてみようかと思ったんだが、まあいいか。楽に越したことはない。そんなに種類はなさそうだが、どうせ俺にはよく判らねえから「君、選んでくれ」と頼んで「これにミルクを入れると、ホッとします」と差し出されたやつにウンと頷いた。
 包んでもらってる間に、値札に書かれた額より多めの金をカウンターへ置いた。慌てる女の子の手から可愛らしい包みをひったくって「相談料込み、な?」と笑ってやる。怖がらせちまった謝罪料込みでもあるが、小心者そうだからそれは黙っておく。
 来た道を戻るとやかましい連中に包みを笑われた。


「なんだなんだ赤髪さん、いつから甘党になったんだァ?」

「男前にゃこんなのも似合うだろ?」

「バカ言えオッサン!ケーキに浮気しやがって」

「ハッハ!次歩く時は振らねえよ」

「そんなら良いや。よく似合ってるよ色男!」


 まったく、バカばっかで楽しいや。

 彼女の部屋に戻るが、まだ机にかじりついているようだった。20分なんかとうに過ぎているけども、外套を部屋に放り投げて気にせずキッチンに向かう。
 使い込まれてるがピカピカに磨かれたやかんに、半分くらい水を溜めて火にかける。側面を焦がすとうるさいから、底だけ火が当たるように腰を屈めて調節した。次にガラスのはめ込まれた食器棚からカップを二つ取り出す。ティーカップはすぐ飲みきっちまって面倒臭ぇからマグカップ。それから幾何学模様が洒落てる平たい皿を二枚。シンクの上の壁際に立てて置かれたトレイを引き寄せ、その上に乗せる。パイを切る為に、包丁も。ああ、あとフォークか。フォークはどこだ。ガチャガチャ音を鳴らしてカトラリーコーナーを探ってると「何を探してます?」と声をかけられた。


「フォーク。ケーキ用の」

「え、ケーキ。シャンクスさんが?」

「ああ、買ってきたよ。可愛い包みぶら下げてな」


 彼女が可笑しそうに喉を鳴らす。俺も自分で可笑しな図だろうなと思う。「はい、フォーク」とすんなり取り出されて受け取った。


「書き物は終わったか?」

「あとちょっとです。音が気になって」

「そのちょっとはどのくらいだ」

「2、3分?」

「なら終わらせろよ。こっちもそのぐらいで支度ができる」


 シッシッと手で払って見せると素直に戻っていく彼女。ちょうど湯も沸きそうだ。
 包みから缶を取り出し、歯で開ける。ふわっと薫る独特の匂い。二つ抓み出した潰れてるバッグは膨らましておく。彼女曰く、こうしておけば「湯の中で葉っぱが跳ねて美味くなる」のらしい。蓋を閉じて食器棚に置くと、やかんがカタカタやりだしたので火を止めた。カップへ注ぎ、ティーバッグを浸からせる。心の中で100秒を数え始め、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。
 10…11…あ、ミルクって温めたほうがいいのか?…23…24…このまま足したら紅茶が冷めるよなァ…31…32…うーん…42…43…まあ、面倒だからいいか…50…51…52…53……ンンーンーンンンー…♪暇潰しのテキトーな鼻歌が聞こえたのか、彼女の抑えた笑い声が向こうからした。ンンンーン、ンー…♪こんなもんだろう。
 バッグを数回揺らして取り出す。できた赤茶の液体に牛乳を垂らしてフォークでかき混ぜ、ミルクティーらしい色になるまで繰り返す。このフォークは俺が使えばいいや。テキトーだ。
 一通り準備ができてトレイを右手で持ち上げた。パイの入った紙箱は取っ手を歯に引っかける。片腕が無くたって慣れちまえば、とりあえずは色々できるものだ。
 彼女もやっと作業を終えたようで、ぐうっと体を上に伸ばしている。西日はいよいよ部屋を赤く染めだしていた。


「ん、」

「おっと。今、テーブル出しますね」


 入口に突っ立った俺に気付いた彼女が慌てて折り畳み式の食卓を組み立てる。そこに乗せたトレイと紙箱を見て「あ、この店」とズレた眼鏡をかけ直した。


「知ってるのか」

「シャンクスさんが前回来た後にできたんですよ」

「へえ」


 紙箱を開けてパイを取り出す。「美味しそう」と笑う彼女の口が、ニッと横に大きく裂ける。


「目がクリクリの、可愛い子がいたでしょう」

「ん?ああ、これを選んでもらったよ」

「え、嬉しい。私のために、あのカワイコチャンが」

「ふ。なんだソレ」

「あの子に会いたいが為、週に一度は通ってます」

「…ふうん…」


 そういえばコイツはこんな奴だった。女のくせに、女の子が大好きなのだ。変な奴。「週に一度“も”通うのか」ぶーたれた声を出してみた。


「なんですか。妬いてます?」

「ああ。妬けた」

「くく。オジサンが女の子に妬くなんて、変ですね」


 ザク。ザク。小気味良い音をたててパイを切っていく。良い生地なんだろうな、美味そうだ。彼女の皿に一番小さく切れたやつを乗せてやった。


「浮気者にはこれで充分だ」

「えー?」

「あとは俺が全部食う。って言ったらどうする?」

「買いに行くまでですよ。いっそ毎日あの子に会いに行こう」

「嘘。嘘だからこれ以上妬かせないでくれ」

「しょうがないなあ」


 喧嘩ごっこに二人で笑って、一番大きく切れたやつも彼女の皿に乗せてやった。


「いただきます」

「めしあがれ」


 彼女がパイを口に運ぶのを眺めながらミルクティーをすする。じんわり身にしみてくようなソレはあの子が言ってたとおり、ホッとするような口当たりと味がした。

(2010年12月2日)


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