不可視の声

02


 
「ああ、可愛いよ遊糸。堪らない…遊糸が自分で挿れてくれる舌は最高に美味しいね。明日は父さんの舌もペロペロしてくれな」

 金茶色の髪を撫でながら、橘が言う。「!」その言葉に遊糸は慌てて顔を上げた。

「あっ、あの、…と、父さん」
「うん?」
「…ッこ、今晩、バイトのあと、先輩んちに泊まる約束してて…。…っそのまま、明日もバイト行くから、あの」

 上手く言えない。橘は遊糸にある程度の自由は許すと言っていたが、本当だろうか。
 もしこれで却下されたら。

「ああ、そうか。いいよ。行っておいで」

 けれど遊糸の不安を他所に、橘は不健康そうな顔に薄気味悪い──けれどもこれがデフォルトの笑みを浮かべた。え、と瞳を瞬く遊糸の頭を再度撫でて、橘は「行ってらっしゃい」と告げた。

「父さんの舌をペロペロしてくれるのは、日曜日だね」
「…っ、…はい…」

 聞こえるか聞こえないかくらいの声で小さく応じて、遊糸は迅速にその壊れた男の部屋を後にした。


+++

「おはよ、遊糸」
「おはよ、海」
「お、なにその荷物。また家出か?」
「莫迦言うなよ、こんな量で。先輩んちに泊りなんだよ」
「うっわ嬉しそう」
「うるせー」

 気持ちが軽い。

 今回は許可を得ている。誰かに迷惑は掛からないはずだ。
 気乗りはしないけれど、きちんと帰るつもりだった。橘のルールを上辺だけなぞってやれば、いつか完全に逃げおおせるだけの準備は整うような気がした。
 学校は勿論、バイトも気楽にこなし、伊織の家で遊びながら夜を過ごした。

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