助けられました。


「なまえちゃん、お酒次は何頼む?」

目の前に差し出されたメニュー表。それを持つ男の手首には、さりげなく意匠の凝らされた腕時計が光っている。会社の打ち上げ会場である居酒屋の裸電球に照らされてしまえば、いくらロレックスの名前が彫られていようがチープな腕時計に見えた。

「じゃあ、ハイボールでお願いします。」

「いいね〜、みょうじちゃんお酒飲めるね〜。」

にやりと笑って店員を呼ぶ男、もとい同部門の先輩。
いつからおめーは私のことちゃん付けで呼び始めたんだよ、と心の中で悪態をつく。
一昨日のプレゼンの打ち合わせの時は「みょうじさん」と呼ばれていたはずだったんだけど。
そもそも注文取りは若手の仕事だろうが。奪うんじゃねえ。飲み会だろうと評価されるんだよ会社は。
はぁ、と控えめに溜息を漏らした。先程からハイペースで先輩が注文を聞いてくるせいで酔いの回りが早い。自分ばかりメニュー表を渡される卓の空気を気遣うのも疲れてきた。
目の前にはトマトの抜かれたサラダが置かれている。数十分前に「みょうじちゃんってトマト嫌いだよね?」とわざわざ大声で確認され、私にだけ取り分けてられたものだ。あの一瞬で「え?あの2人仲良いの?」という視線がちらほら向けられた。
くそ、どこで私のトマト嫌いを聞きつけやがった。
今も先輩の視線が、目を逸らした私などお構いなくじろりじろりと舐めるようで、気持ちが悪い。

「すみません、少しお手洗いに。」

寒くも無いのに手渡されたブランケットを膝から外し、席を立ったのだった。





女子トイレの中は、熱気だった会場に比べいくらか涼しい。
笑みを浮かべて凝り固まった頬をほぐしながら深く深呼吸をする。
あー空気が美味しいーー……。トイレの空気が美味しいってやばいな、なんて思いながら鏡に映る自分を見た。
あれは狙いに来てるよなぁ、だる…。周りも変に気を遣って私たちに会話を振ってこなかった。やめてくれ、仲間に入れてくれ、そのドラマなら私も見てるよ。なんなら推しの俳優も被ってるよ。
隣の卓なら良かったなぁ。あそこは皆で盛り上がってた。そういやあの卓、有名な煉獄さんがいたっけな、そりゃ盛り上がるわ。彼の整った顔立ちと女子会で煉獄トークをかます同期達の様子を思い出せば、有名なのも納得である。
というか、だ。
問題はあのロレックス野郎である。
薄々勘づいてはいたものの、彼の行為は、今日のランチタイムに同期と話した「飲み会でされたら胸キュンTOP10」で私が出した胸キュンシーンを鳥肌立つくらい忠実に再現したものだ。
渡されたブランケットも、勝手にかけられたコートも、トマト抜きのサラダも、次のお酒聞いてくれるのも。
これらは全てイケメンや好きな人にしてもらうことを前提に話したものである。
おめぇじゃねーんだよ。ていうかランチタイムの会話を聞いてたってことだよね?…今度から声量抑えよう。
はぁ…席戻りたくないなぁ。ずっとトイレにこもってたいなぁ。
腕時計を見れば、席を立ってからもうすぐ10分が経ってしまう。
帰ればロレックス野郎はいるし、周りに変な気を遣われるし、なんならパンプスの靴擦れも痛いし。最悪だ。
……なんて言ってもしょうがないしなぁ。そろそろ戻ろう。
一応手は洗って、トイレのドアを開けた、その時。

「みょうじちゃん〜、遅いぞ!」

へにゃりと笑った先輩が、トイレの前の廊下に立っていた。
細められた目がちらりとリブニットの胸を掠める。
げ、という声を慌てて飲み込めばわざと明るい声が出た。

「先輩、こんなところで何してるんですかぁ!
先輩いなかったら卓の皆んな寂しがりますよ!」

「えーだってみょうじちゃん全然帰ってこないからァ。」

ははっと愛想笑いして歩き出そうとした時、ぐいっと腕を引かれて壁に押し付けられた。
靴擦れの箇所を思い切り刺激され思わず唇を噛む。

「…ちょっと先輩、酔ってます?」

かろうじて笑みを浮かべて先輩を見上げる。
こんな時、躊躇なくボディーブローをかませる女になりたかった。

「酔ってる、かも。
ねぇ、今日の俺どうだった?」

「ど…あの、どうとは。」

だからぁ、と苛立った声と共に酒臭い息が顔にかかる。

「あーいうのが好きなんだろ?
どう?俺のこと、いいなって思ってくれた?」

「いや、えっと」

口籠る私に苛立ったのか、肩を強く掴まれ引き寄せられた。
酔いに歪んだ黒目が至近距離で私を見ていて、ぞくりと鳥肌が走る。

「やめてください!セクハラ案件で上に報告します…!」

「はぁ?なんでだよ?みょうじちゃんが喜ぶことやってやったんだろ!?」

ぎり、と強まる手。
逃げなきゃ、突き飛ばさなきゃ、と思いながらも仕事の今後が脳裏を掠めて手が震えてしまう。
先輩の大きな上背が追い詰めるように私に影を落とす。

「おい。離れろ。」

冷たい声が聞こえた、と思ったら、目の前から先輩の影が消えた。
ぐっという唸り声が聞こえて顔を上げれば先輩は反対側の壁に押し付けられていた。
先輩の胸ぐらを掴んでいるのは派手な金髪の背の高い人で。

「……煉獄、さん。」

こちらを振り向いた瞳と目が合う。
安心しろ、とでも言うようにニッと目を細めた彼。でも、それも一瞬のこと。

「お前がやったことは立派なセクハラ、パワハラだ。か弱い若手女性社員にお前の劣情と権力を振りかざした。」

先輩に向き直り、そう告げる煉獄さん。その表情を見ることは出来ないが、みるみると先輩は青ざめていく。

「今のうちに辞表を用意しておくことだな。」

掴んだシャツから手を離せば、半分腰を抜かしながら走り去っていく先輩。
ふう、とひとつため息をついた煉獄さんが大丈夫だったか?と私を見た。

「あっ、ありがとうございます!…その、助かりました。」

「よもや!礼などいらん!当たり前のことをしただけだ。」 

にっこりと底抜けに明るい笑顔に、心臓が鳴った。
いや、違うぞ、断じて惚れてなんかいない。襲われた恐怖と助けてもらった安心感の心理的ジェットコースターに思わずドキッとしただけで。そう、これはいわゆる吊橋効果ってやつだ!!
………たぶん。

「少し待っていてくれるか!」

ステイのハンドジェスチャーののち、煉獄さんは駆け足で去ってしまった。
ぽつんと取り残された廊下。体から力が抜けるのと同時に、思い出したかのように靴擦れの痛みがじんじんと湧き上がってくる。パンプスを脱いで確認すればべろんと剥がれた薄皮から血がべったりと出ていた。

「……あーあ、そりゃ痛いわ。」

小さな独り言が漏れた。
壁に身を預けるのも辛くなり、ずるずると蹲れば、酔ったせいか吐気と動機が目まぐるしく襲いかかってくる。
先輩に掴まれた肩口は熱を持っていて、リブニットをずらして見ると薄赤く痣になっていた。
踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂とはこのこと。

「すまない!待たせた!!……大丈夫か!?」

馬鹿でかい声が響き顔を上げると、私のコートとバッグを小脇に抱えた煉獄さんが駆け寄ってきたところだった。
蹲った私を心配そうな表情で見ている。
差し出された手を掴むと、靴擦れの傷から付いたのだろう、手の甲に残った血の跡に煉獄さんは目を見開いた。

「大丈夫です。荷物、持ってきてくださったんですね、どうも。」

「よもや、怪我をさせられたのか?」

荷物を受け取ろうとした手を遮るように聞かれるも、「いえ、靴擦れしてしまいまして。」なんて自然と言葉が口をついた。
嘘はついてないが出血するほど悪化したのはあの男のせいである。許さん。

「そうか!」

ひょいっと受け取った荷物を奪われた。
へ??なんで??と固まる私の前で、背を向けしゃがむ煉獄さん。

「歩くのも辛いだろう!!乗るといい!!」

乗るといいってあなた……。
部門も違い、接点もない会社の先輩にそこまでしてもらうなんて、靴擦れの痛みより普通に遠慮が勝る。

「いえ、あの、そこまでしていただく訳には!大丈夫です!」

「大丈夫な訳あるか!俺は怪我をした女性を歩かせる真似などできない!!さあ!!」

呼応するように大きくなる私たちの会話が廊下に響く。
まんじりとも動かない煉獄さん。こちらを見上げる瞳がさあ!早く!!ととんでもない圧を放っている。
これ、無下にしたら逆に失礼に当たるやつでは…?
難しいよぉ…気遣いマナー日常編マニュアル誰か作ってくれぇ。

「……失礼します。」

「うむ!!」

恐る恐る体重を預けるも、煉獄さんの逞しい背中は軽々と私をおぶって立ち上がった。
痩せときゃよかった……痩せときゃよかった!!!!
昨夜のラーメンを恨んだ。






背負った彼女の温もりが背中から伝わって熱いほどだった。
俺は一向に構わないのだが、彼女は嫌ではないだろうか。ちらりと盗み見るも、彼女は大人しく俺に身を預けたままだ。
半年前、初めて彼女を見た時を思い出す。
残業後、いざ終電に飛び乗らんとフロアを後にした時に偶然目にした、1人PCに向かう彼女。転がるエナジードリンクの缶が目に入るやいなや、新たにプシュッと開ける音が暗いフロアに響いたのだった。通り過ぎ様に様子を伺えば、一缶飲み干したその頬に涙が伝って、溜息と共にPCを睨む表情がこれは悔し涙だと語っていた。
後日同期が「可愛い新人がいる。」と肩を叩いた時、人形のように微笑みを絶やさない彼女に目を疑ったものだった。それから笑顔の彼女を見かける度に、よもや素の彼女を知るのは俺だけか、と得体の知れぬ優越感が湧き上がって、気づけばいつも目で追うようになっていた。
声をかけまいか、いや恋人がいるかも知れん、うむ見ているだけで満足だと人知れず想いを募らせた彼女は、今こうして俺の背にいる訳で。

歩くたび、揺れる彼女の髪から甘い匂いが香る。ワイシャツ越しに柔らかいその身体を感じる。
うむ!!僥倖!!!!


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