満月の夜に



夜の森を駆ける。
隠れるのが上手いのか、逃げ足が速いのか。鬼の姿はとうに闇に紛れているが、匂いを捉えた炭次郎にはたいした問題ではなかった。
くん、と鼻に空気を通せば、夜の湿った匂いに鬼の匂いが溶け込んでいるのがわかる。肌がざわつく鬼特有の匂いより、悲しみや寂しさの匂いのほうが強く鼻につく。
鬼に出会った瞬間を思い出した。
街外れの野に立ち、まるで人間のように穏やかな顔をして月を眺めていた。任務帰りで疲れていたものの見つけたからには狩らねばと日輪等を手に近づけば、はっとこちらを見て、悲しそうに目を見張って逃げた鬼。攻撃をする素振りすらなく、悲しみの匂いだけその場に残してあっという間に姿を消したのだった。
あまりの害のない匂いに珠世さんの姿が脳裏に浮かぶが、軽く頭を振ってそんな思いを追いやる。
鬼だ、人を喰らって生きる鬼だ。
俺が今倒さなきゃ明日誰かを殺すかもしれない。
日輪刀を握る手に力を込め、鬼を追う足を早めれば、いつのまにか森を抜け一面にすすきの生い茂る原っぱに出た。
さあっと風が吹き、俺の頬を撫でた。濃い鬼の匂いがする。
高く昇った月が煌々と辺りを照らし、薄い雲が夜空を流れていく。
野原の真ん中で鬼は静かに佇んでいた。こちらを見つめる鬼の目は淡く青く光り、悲しみとともに俺を待っているかのようだった。
さく、さく、と警戒しながら近づいていく。
月光に照らされて、鬼の顔がはっきりと見えた。
血の通っていないかのような儚い面映えに、結い垂らした黒い髪。人をあまり喰らっていないのか、姿形はまるで人間そのものだった。
鬼が俺の顔を見て息を呑む。
「…ねえ」
鈴を転がすような声が耳に届いた。こちらの戦意を削ぐほどの優しい声音だった。
「なんだ」
警戒心を説いてはいけないと日輪刀を握り直す。そんな俺を見て、鬼は悲しげに微笑んだ。
「その耳飾り、もしかしてあなた、花札は好き?」
思いもしなかった問いに一瞬呆気にとられる。
隙を突くでもなく、命乞いをするでもなく、ただ純粋に気になるのだろう、俺の答えを待つ鬼はじっとこちらを見つめている。
「……いや」
そう言った瞬間、鬼は悲しげに視線を落とした。
辺りを漂う鬼の匂いには敵意も血の匂いすらもなく、目の前の鬼はただの少女だと錯覚してしまいそうになる。
だめだ。しっかりしないと。
すぅ、と息を吸う。
「俺は山育ちだから、花札なんてやったことがないんだ。
俺も君にひとつ聞きたい。……君は鬼の匂いがするのに、まったく血の匂いがしないな。
人を喰らったことは無いのか?」
淡く光る瞳が僅かに見開かれる。月の光をきらりと反射する目元には、薄らと涙が滲んでいた。
鬼の涙なんて初めて見るから思わず戸惑ってしまった。
「無いわ。……私には、食べられなかった。どれだけお腹が空いても、苦しくても。」
信じてもらえないでしょうけど、と静かに笑う。
嘘じゃないことは匂いでわかった。
今まで倒してきた鬼たちが脳裏によぎる。
みんな牙を剥き出して、爪を血に染めて、腹が減ったと襲いかかってきた。それなのにこの鬼は、人の血肉を食べずとも理性を保って俺の目の前で静かに佇んでいる。満月に照らされる姿は人間の少女と何ら変わらない。
「っ…俺の妹も、鬼なんだ!眠ることで人を襲わずに生きているんだ。頼む、どうやったら人を食べずに生きられるのか、君みたいに生きていけるのか教えてくれ!」
切に叫ぶ俺の声に、鬼は唇を噛んだ。
「私は……人間だった頃は花札が大切だった。命よりも。」
柔らかな声が夜に溶ける。悲しみの匂いが一層強く匂い立った。
「鬼になってしまってからも同じ。花札と、その思い出で鬼の本能を死に物狂いで押さえつけてたの。苦しいだけよ、いまあなたの妹が、寝ることで飢えを凌げているのなら、そっちの方が何倍も幸せな生き方だわ。」
本当に辛そうに語る彼女に、俺は言葉を飲み込むほかなかった。そんな俺を見て、ごめんなさいね、と力なく笑う。
ふと空を仰ぎ、遥か彼方の満月から光を浴びる姿は、夜の静けさに、月の冷たさに焦がれているように見えた。
ずっと1人で生きてきたのだろう。鬼の自分に苦しみながら。
二度と人と花札が出来ないのは、1人でただ札を見つめることしか出来ないのは、悲しかっただろう。辛かっただろう。
俺の気持ちが正解だと言わんばかりに、彼女から底知れぬ寂しい匂いが募ってくる。
「花札にね、芒に月って札があるの」
月を見つめたままぽつりと呟いた。
「今まで、鬼狩りからも飢えからも散々逃げてきたけど、もう疲れてしまって。
今日は月が綺麗だから。こんな日に死にたいわ。
ねぇ、鬼狩りさん。……私の首を刎ねて。
この苦しみを終わらせて」
静かに目を閉じる彼女からは、様々な想いが匂い立ってくる。
悲しみ、後悔、羨望、絶望。そして、尽きぬ渇望。これはきっと、彼女の言う花札への想いなんだろう。
肺に染みる匂いに胸が締め付けられる。
「君は、死ぬこの瞬間まで花札がしたいんだな。」
思わず口から言葉が漏れてしまう。
ふふ、と彼女は笑った。
「おかしいでしょう?でも、花札が私の人生だったの。あぁ、死ぬ前にもう一度、花札がしたかったなぁ」
大事そうに袂に触れる仕草に、片時も離さず花札を持っていたのだろうと想像がついた。彼女の頬を涙が伝う。瞼の裏で、いつかの花札の瞬間を思い出しているのだろうか。甘く切ない匂いが鼻をくすぐった。
「……俺は、君の願いを叶えてあげたい。このまま首を斬るなんてあんまりじゃないか。」
目の前の彼女が、禰豆子や珠世さんと重なってしまってしようがなかった。涙を湛えた目が俺を見た。
「優しいのね。…じゃあ、一度だけ。
手合わせをお願いしてもいいかしら」
そう言うと彼女は手で韻を結んだ。
攻撃か、と本能がけたたましく警報をあげ、思わず剣の柄に手をかけた。
『血鬼術……朱盆に夜桜』
その瞬間、桜吹雪が辺りを包み、赤や濃紺の丹が舞うように辺りを囲む。金箔の屏風には、赤い実の間を猪が駆け、鹿が紅葉をはみ、牡丹の海を蝶が舞う。
遥か上を切り取られかのように夜空が広がり、先程の月が顔を見せていた。
鏡のように磨かれた板床に、俺は彼女と相目見え座っていた。
頬を僅かに紅潮させ札を切りながら、「本来だったら、追ってきた鬼狩りを惑わせる術なんだけど」と彼女は言う。その様子は本当に嬉しそうで、一瞬でも彼女を疑った自分を殴りたくなった。
「言った通り俺は一度もやったことないんだけど、いいかな」
そう尋ねる俺に、彼女は微笑んで一杯の盃を渡した。
「これを飲んで。私の花札の知識を溶かし込んだわ」
そんなことができるのか、と思い流し込めば、彼女が経験してきたのであろう幾多の花札の思い出が頭に流れ込んでくる。
幼い手で、初めて札に触れた記憶。優しく教えてくれるのは母親だろうか。豪奢な部屋で、歳を経て成長していく彼女が幾度も楽しそうに札を合わせる。それから襲いくる飢えに渇き、孤独。1人月夜の下で札を眺めているのは、鬼になってからの記憶だとわかった。
赤丹、青丹、猪鹿蝶。役を合わせる快感。
目を閉じながら全てを飲み下した。
目を開ければ、瞳を輝かせた彼女と目が合う。
「うん。わかった、やろう」
それはそれは幸せそうに、彼女は笑った。

1月から始まり、彼女は次々と役を完成させていく。最初は押され気味だったけれど、彼女の手指導もあり俺の場にも段々と札が増えていった。
役を合わせながら、彼女は自分の身の上を語った。
芸者の子に生まれたこと。姐さん方に花札を教えてもらったこと。狭い檻の中で、花札だけが楽しみだったこと。楽しそうにあれも、これも、と話す姿はとても可愛らしくて、出会った時の悲しみや悲しみに身をやつす彼女とは別人のようだった。
鬼になってからを語らないことに、少し胸が痛む。
「こいこい!」
三光を揃えた彼女は声を上げた。
意識が勝負に引き戻される。
狙っているのは菊に盃か、柳に小野道風か。桐に鳳凰が手札にあるのかもしれない。
場にある種札は紅葉に鹿と菖蒲に八橋、それと菊に盃。
彼女の考えを読みながら、自分の手札を見やる。
「いいのか?この月の手札はもう少ないぞ」
「私こういう勝負が好きなの!」
そう言って楽しそうに笑う。
「そうか!」
それなら、と紅葉青丹を鹿に合わせた。これで猪鹿蝶が揃った。彼女を見れば、にやっと笑う。確かにこの役じゃまだ彼女の得点には及ばない。なんだか悔しくて、それと同時に花札が楽しくて、俺も笑ってしまった。
山から一枚引いて札を見れば、悔しさが勝利への希望に変わった。
菊に盃に、山から引いた菊に青丹を重ねる。
「この月は俺の勝ちだ!」
「わ、嘘でしょ!」
猪鹿蝶に青丹三枚。彼女のこいこいで点数は倍となっている。ようやく彼女の点数に追いついた。
悔しい、と笑う彼女は本当に普通の少女だった。
それからは彼女が巻き返し、俺も負けじと点を取り、長いようで一瞬で過ぎゆく勝負はついに十二月へ。
札を配る彼女から、ふと寂しさの匂いが香った。
「これで最後ね。……私、また花札ができるなんて、思ってなかった。」
涙を押し殺すような声に胸を締め付けられる。
「鬼になってずっと苦しくて辛くて、こんな幸せな気持ちになれるなんて、思ってなかった」
胸元に手を当てて、へにゃりと笑う彼女がいじらしくて、胸が掻きむしられるような思いに駆られた。
口にする言葉が見つからず、じっと彼女を見つめる。
「本当に、ありがとう。…この勝負、恨みっこなしよ。絶対に勝つわ」
強く、明るい声でそう言い放つ彼女。
この月が終わればその命が奪われると知っているのに。鬼にさえならなければ、きっとこれからもずっと花札ができただろうに。
それでも晴々とした匂いを纏う彼女は、その笑顔は、とても綺麗だった。
「わかった。……俺も全力で挑む!」
親の彼女から始まり札を取り合う。早々に丹を揃え、こいこい!と声をあげた俺を見て、彼女はにやっと笑った。その瞬間、彼女は花見酒を揃え、彼女もまたこいこいと挑む。
役を揃えるごとに、手札は減り、勝負は終わりへと近づいていく。
花見酒に、雨四光を揃えた彼女。
色鮮やかな札を白い指で拾い上げ、得意げな顔で俺に笑いかける。無邪気な笑顔に心がくすぐられて、俺も自然と彼女に笑いかけた。
つかのま絡む俺と彼女の瞳。
ひぐっ、と彼女の喉がえずいた。
「こい…こいっ…!」
綺麗な瞳からぽろぽろと涙が溢れて、頬を流れ落ち、着物を濡らしていく。
けれど、その表情は楽しそうに笑っていて、それでも匂いはとても悲しくて、思わずその頬に触れてしまいたくなった。
俺が札を出して、お互い最後の一枚。
彼女は震える手で芒に雁の札に、手札の満月を揃えた。
「私の勝ち…!」
もう止めることもできないのか、涙を幾筋も流しながら幸せそうに微笑む彼女。たまらず、彼女の頬を包む。
「あぁ!君の勝ちだ。凄いぞ、五光に飲みまで揃えて…!」
彼女の悲しみを少しでも和らげたくて、口が動く。
熱い涙で俺の手が濡れていく。
「ありがとう。人の手って、こんなに暖かったのね」
俺の手に頬を擦り寄せる彼女。涙を溢しながら、きゅ、と瞼を閉じた。
「…終わっちゃった。とても楽しかった。もう心残りなんて何もないわ」
つ、と濡れた瞳と視線が絡む。
「約束よ。私の首、斬ってくれる?」
どくん、と心臓が鳴った。
殺したくなかった。人を殺したくないと苦しみに耐え続けた彼女を、共に笑顔で時を過ごした彼女を自分の手で殺したくなどなかった。
俺を見つめる彼女の瞳が、胸を締め付けてとても苦しかった。
「…嫌だ。嫌だ、俺には斬れない!君は他の鬼と違うじゃないか!飢えが辛いなら、禰豆子のように眠ることで解決するかもしれない。それに…それに、珠世さんなら何か良い方法を知っているかもしれない!」
心のままに叫べば、だめ、と悲しげな声で諌められた。
「私は鬼よ。ずっと鬼として生きるのが辛かった。苦しかったの。」
わかって、と言うように、頬に添えられた俺の手を優しく包む。
「ありがとう。こんなに幸せな最期をくれて。
ねぇ、鬼狩りさん。私の首を斬るのがあなたで本当に嬉しいの。
だから、お願い。」
手を離し、首を差し出すように目を閉じる。
彼女の気持ちを慮れば、もう何も言えなかった。目の前の白い首を斬ることが、俺にできる救いなのだと頭では理解しているのに。
身を離し、日輪刀に手をかける。カチリ、という音に彼女の肩が少し跳ねた。首を斬られる恐怖を抑え込み、刃を待つ彼女。
切りたくない、と心が叫び、視界が滲んでいく。
それでも。
「……水の呼吸、伍の型。」
身体に染み付いた型は、残酷なほど素早く技と成って彼女の首へ迫る。
「干天の慈雨……!」
首を切り落とす手応え。ごとりという音が嫌に響いた。
落ちた彼女の首を優しく抱き締める。
「ありがとう…」
力の無い声で話そうとする彼女。
「いいんだ…!苦しかっただろう。辛かっただろう。よく頑張ったな。」
首から流れる血でベタつく髪を、震える手でできるだけ優しく撫でる。
塵となっていく彼女と共に、血鬼術で出来上がった部屋も消えていく。
「ごめんな、こんな救い方しか出来なくて、本当にごめん」
「謝らないで…わたし、あなたに救ってもらえて本当に良かった」
幸せそうにそう呟く声が胸を突き刺し、悲しみと安堵が入り混じって、涙が溢れた。
「あぁ…あぁ!俺も、君と出会えてよかった。最後に、君を笑顔にできてよかった」
「生まれ変わったら、また私と花札してくれる…?」
「もちろんだ!」
俺の言葉に安心したように目を閉じる彼女。
もう片目しか残っていない頬に、俺の涙がぽたりぽたりと落ちる。まるで俺に寄り添うように幸せな匂いが漂う。
もう、彼女の瞼は動かなかった。
「……それまで、ゆっくりおやすみ」
さらさらと、月夜の風に乗って彼女は消えた。最後まで穏やかな微笑みを浮かべて。
腕の中で、着物がぱたりと風に靡いた。


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