惜別


或る晴れた日に、彼は逝った。

秋晴れの清々しい空を、小さな黒い影が飛んでいる。
煉獄家の上空を旋回する影を目で追えば、それが煉獄杏寿朗の鎹鴉だと気づいた。
(降りてこないのかしら…)と目元に手をかざして眩しい秋空を見上げる。
いつもならすぐに降りてくるのに。
怪訝に思い目を細めていると、「義姉上」と義弟の千寿朗がひょっこりと縁側に顔を出した。

「どうかされましたか?」

下がり眉の下から、千寿朗は私の視線を追って空を見上げた。
草履をひっかけ駆け寄ってくる。 

「あの人の鎹鴉が来てるのだけど、降りてこないの」

うーん、と2人で首をかしげていると、黒い影は1つ大きく羽ばたきをしてこちらに降りてきた。
差し出した腕にとまり、ばさりと羽をしまう。
いつもならすぐにかしましく喋る嘴が動く気配はなく、首を傾げたり身を震わせたりで、困った私と千寿朗は顔を見合わせた。

「何かあったのですか?」

嫌な予感がじくりと胸を刺す。思わず急かすと、とんっと地に降りた鎹鴉。クッ、クッ、と喉を鳴らして、こちらを見ようともせず落ち着かない様子だった。
心配になったのだろう、千寿朗が地面に膝を突き、鴉の顔を覗き込んだ、その瞬間。
顔をグッとあげて、鎹鴉はけたたましく叫んだ。

「死亡!煉獄杏寿朗、上弦ノ鬼ト戦イ死亡!!
任務ハ果タサレタ、乗客二百名ヲ守リ無限列車ノ鬼ヲ退治シタ!!

名誉ノ死デアル!!」

しゃがれた声は、秋の高い空に響き渡り、そして空気に溶けていった。
時が止まったようだった。

目の前の鎹鴉から目が離せなかった。
死亡、煉獄杏寿朗、鬼、名誉の死。
しゃがれた声は耳にこびりついているのに、理解することを拒絶したまま脳を掻き乱して頭が動かない。それなのに、湧き出した悲しみが荒れ波となり心臓を握りつぶしてくる。

世界が、ぐらり、と傾いたような気がした。
目の前が暗く、焦点が合わなくなっていく。
「カァ、」と力なく鳴く声に、ふと呼び戻された。
隣で、千寿朗が地面に崩れた。土に膝をつき、肩を震わせる。彼の肩を抱いてやらねば。そう思いながらも身体が動かなかった。
身じろぎひとつしようものなら、触れた空気の波紋一筋から、杏寿郎様の死んだ世界が始まってしまう気がした。

気がつけばきつく襟元を握りしめていたらしい。固まった拳をぎこちなく開いていく。食い込んだ爪痕がくっきりと残る手のひらが目に映る。
そっと千寿朗の背に触れた。
小さな背中は嗚咽とともに震えていた。

「……聞きましたね。お義父様に、ご報告に」 

行きましょう、という言葉が喉に張り付いて出てこなかった。千寿朗の、満面の笑顔で兄と話す顔が瞼に浮かんで、どくんと心臓が痛ましく打った。

「…行ってきます。
身体を冷やす前に屋敷にお入りなさい。……あなたも、お疲れ様でした。」

鎹鴉の頭を撫で、腰を上げる。力が入りきらない身体はふらりと支えを失ったかの様に揺れた。それをぐ、と踏ん張って、一歩踏み出す。
不安定に歪む地面をのそり、のそりと歩く。足が重い。暗いもやが心を飲み込んでいく。少しずつ、水が土に沁み入るように、杏寿朗様の死が胸に広がっていった。

杏寿朗様が、死んだ。
嘘でしょう、だって、杏寿朗様ってば「帰ったらさつまいもの料理を出してくれ!」って、馬鹿みたいに笑って行ったじゃない。あぁもうなに不安になってるの。あの人は帰ってくる。帰ってくる。
滲む視界を擦り、込み上げる熱い嗚咽を歯を食いしばって耐えた。呼び掛けても襖も開けず、口も開かぬ義父に全てを伝えた時も、一筋として涙を流すことはなかった。



その後、隠の者が訪れ「明後日にはご遺体をお返しいたします。」と神妙な面持ちで告げた。続けて、杏寿朗様と共に戦った隊士から聞いたという彼の最期についても教えてくれた。
鬼の腹に200人の人を捕らえられながらも、守り切ったこと。
上弦の鬼の来襲にも1人で見事に太刀打ち、致命傷を負った鬼は朝日に追われて逃げ去ったこと。
200人。あの人が守った命一人一人に、愛する家族がいる。誰一人、私が沈むこの悲しみに浸ることはなかった。あぁ、それがどんなに辛くて、何事にも代え難い、尊く、幸福なことであったか。
愛した人が命を掛けて成し遂げたことに、胸が震える。

「炎柱様は大勢の隊士から慕われていました。我々も共に戦えはせずとも心から尊敬しておりました。
餞をする者は沢山おります。
どうか、別れのために門は開いていてくださいますよう」

彼の言葉にありありと杏寿朗様の姿が瞼に浮かんでしまって、顔を覆って泣き出してしまいそうだった。
彼ははもう逝ってしまったのだと、ようやく、けれど心から理解してしまった。
生き急ぎすぎですよ、と彼を少し責める。
でも杏寿朗様は責務を果たされたのだ。尊い200人の命を守った。かっこいい、もう会えないのに、もっと惚れさせるなんて、ずるい。悲しい。会いたい。会いたい。

「……ありがとうございます。夫もきっと笑顔で皆様を迎えるでしょう。
あなたも、花を手向けにいらしてください」

涙を呑み込み、笑顔を作った。
炎柱の妻として振る舞う精一杯であった。
 
 

それからは葬儀の準備に忙しくなった。おかげで悲しみに打ちひしがれることはなかった。まだ暑さの残る季節、彼の体が朽ちるのを避け、遺体を迎える日に葬儀を執り行うこととなった。
杏寿朗様の遺品を手に取れば、もう二度と会えないのだと熱く込み上げるものはあったけれど、隣で顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら手を動かす千寿朗を見れば、優しく頭を撫でるほかなかった。
あの人の面影を持つ千寿朗が愛おしくてたまらなかった。私の心は悲しみに疲れ果てていたけれど、守らなきゃいけないものがある。
だから、涙は殺すの。柱の妻たる者強くあれと、いつかの杏寿朗様の言葉を思い出す。
泣き止まない千寿朗を優しく抱きしめた。
強く優しいあの人ならそうするはず、と熱い涙をこらえる自分に言い聞かせながら。



何度も、何度も悲しみを押し殺した。歯を食いしばり目を閉じれば、杏寿郎様は瞼の裏で笑うばかりで。そのたびに悲しみは、胸の痛みは耐えられないほど私を襲った。
誤魔化すように、「大丈夫」「前を向きましょう」と言葉にしたけれど、それを一番できないのが自分だと、心のどこかで気づいていた。
心が愛し続けた彼の姿を探し求めていた。
たとえば、日を照り返す千寿朗の髪に、手を伸ばしかけたり。ある時には、障子越しの義父の影に、「杏寿郎様」と呼びそうになったり。
そして、一人きりの暗い部屋逃げ込んで、彼はもういないのだと自分に言い聞かせて、滲む目元を擦った。
泣いてはいけない。杏寿朗様は柱として立派な最後を迎えたのだ。その妻として相応しく振る舞わなければ。
何度も何度も自分に言い聞かせた。
この張り詰めた糸はいつまで持つのだろうか。
この糸が切れてしまったら、あの人のいない悲しみと、明日への絶望に呑まれてしまう。

私は、強くない。強くなれない。あの人のようには。

それでも残された千寿郎のため、炎柱の妻で在るため、精一杯気丈に振る舞った。
鴉が彼の死を告げた日の夜も、その次の夜も、千寿朗が寂しげに袖を引くので同じ布団で眠った。
幾度も涙に溺れては目を覚ます義弟に、優しく諭す。

「炎柱としてのあの人の最期を、あなたも聞いたでしょう。杏寿朗様と同じ熱く燃える血があなたにも流れています。
彼の誇りを受け継いで、明日を生きていかなければなりません。」

自分の言った言葉を反芻する。
ごめんね、千寿朗。私はあの人がいない明日なんて、なにも思い描けない。
真夜中の部屋では、滴を零さんと張った瞳は暗闇を捉えるばかりで、優しいあの人の寝息も、包み込んででくれるあの人の温もりも、どうしたってもう、此処には無かった。
熱い涙がこぼれ落ち、枕を濡らした。
    


秋晴れの良い日だった。
朝が来て、彼が骸となって煉獄家の門を通った。
無機質な桐の棺。目を伏せ物言わず去る隠。
どこか他人事のように思えて桐の蓋を開ければ、眠るように目を閉じた杏寿朗様が横たわっていた。
残酷なほどぴたりと閉じた瞼。
生前と変わらぬ凛々しく整った顔に、獅子のような髪に、杏寿朗様のよく通る声が頭の中で聞こえたような気がしたけれど、ピクリとも動く気配のないそれをどうしても愛する夫だとは思えなかった。思いたくなかった。
…だというのに、ぎゅうぎゅうと胸が押し潰される。
ああ、耐えなきゃ。千寿朗もいるのに。だめ、泣いたらだめ。ああ。
痛みにうまく息も吸えぬまま、はっと短く息がこぼれた、その瞬間。ぼろり、と涙が溢れた。あっという間に視界を歪めて、熱を持った頬を大粒の涙がこぼれ落ちていく。だめだ、私が泣いたらだめだ。杏寿朗様の妻としてしっかりしなければ。
隠の者が施したのだろう。傷跡は綺麗に隠され、鬼との戦いが嘘のように穏やかな顔をしていた。
「あ、にうえ…」
もう動かない彼に縋り付く千寿郎を、優しく抱きしめた。
もうすぐ葬儀のため沢山の人が来る。今だけは兄弟二人にしてやらねば、と部屋をあとにした。



次々と煉獄家を訪れる人により、静まりかえっていた屋敷は幾分賑やかになった。音柱の宇髄様とその奥方や恋柱の甘露寺様も足を運んでくださり、挨拶に回る私を労ってくれた。それぞれが彼の遺体に花を手向け、思い出話で時を艶どる。
酒を配り、杯に応じて言葉を交わしていれば、あっという間に出棺の刻となって、まばらに人は散りゆき屋敷が落ち着きを取り戻した。
去り際に雛鶴様が、「最後は愛しあった妻のあなたが、煉獄様にきちんとお別れを言うのよ」と話しかけてくれる。行きましょうか、と千寿朗に声をかけると、彼は赤く腫らした目を伏せた。
「義姉上、お一人で行ってください…先程は2人きりにしてくれたから。きっと兄も、義姉上と話したいと思います」
そうこぼし義父のあとを追ってしまった。
ぽつんと広い屋敷に1人残され、まだ少し酒の残る足取りで棺に近寄る。
そこに杏寿朗様の遺体がある。そう思うとくらりと眩暈がした。
そろ、と棺を覗き込む。
目を閉じて横たわる杏寿朗様。力が抜けて、彼の隣にどさりと腰を落とした。
葬儀中、蓋をしたように感じなかった悲しみが、じわりじわりと沁みてくる。それでも大声で泣き出せなくて、じっと彼の顔を見つめた。

溌溂とした彼の生前を思えば、目の前のこれはまるで精巧な人形のように偽物だった。
静かに隣で眠る杏寿朗様の顔を思い出せば、それは紛れもなく愛した人だった。

いたずらに頬をつつく。
硬く冷たい皮膚の感触。丁寧に閉じられた瞼。
少し尖った唇は、何度も私の名前を呼んでくれた。まだ彼の声が耳の奥で思い出される。
その瞬間、杏寿朗様の笑顔がくっきりと脳裏に浮かび上がった。残酷なほど鮮明な笑顔、手を伸ばせば触れそうなほど。あぁ…わたしこんなにもあの人が胸に焼き付いてるんだ。この人を忘れるなんて無理だ。胸の痛みを、心の底から愛したことを、死ぬまできっと忘れられない。思い出になんてできない。

「あ、ぁぁ……」

止めようとするも手遅れ。涙が溢れ熱い嗚咽に息をするのもままならない。
杏寿朗様の固い頬に触れ、乾いた髪に触れ、その愛しい顔を両手で包み込んでも、彼は動かず冷たいままで。

「きょ、寿朗様ぁ…」

弱々しく漏れる声は、まるで私じゃ無いみたいだった。

「杏寿朗様…。あ、あなたがいなかったら……わたし……!!」

がらんとした屋敷に、答えてくれる人なんて誰もいない。ずっと隣にいるはずだった人はもういない。ひとりぼっちが寂しくて、怖くて、悲しみに押し潰されそうだ。

ねえ、杏寿朗さま。
私はこれからどう生きればいいの?
日々の幸せや悲しみをいつだってあなたと分かち合ってた。あなたが頼ってくれるのが嬉しかった。甘えさせてくれるのが嬉しかった。
もう、私の料理をうまいと言って食べてくれないのですか。手伝おうと言って、洗濯物をぐしゃぐしゃに畳んだりはしないのですか。
ただいま、と言ってはくれないのですか。
もうあなたに、会えないのですか。
この悲しみを背負って生きていくなんて、無理です。
もう二度と杏寿朗様に会えないのに、変わらず明日が来るのが私には怖いのです。
ねえ杏寿朗さま。

「…おい」

突然聞こえた声に肩が跳ねた。
伏せた視界に無骨な足が映る。
おずおずと視線を上げれば、少し息を荒げた義父が私を見下ろしていた。
居住まいを正す気力も無く、彼の遺体にしがみついたまま義父を見つめる。

「……参列者を待たせるな。行くぞ」

ぐい、と遺体から無理矢理引き離され、引っ張られるままに立ち上がった。
義父の手は、案外優しかった。

「馬鹿息子が…」

ぽろ、とこぼされる言葉に、そんなわけないじゃないと声を張りたくなるけれど、言葉はひくつく喉に張り付いて出なかった。
義父の背中に引っ張られるように歩く。
泣き腫らした顔を参列してくださる人たちに見せるのが、彼の妻として恥ずかしかった。
そのまま火葬場まで棺に寄り添い、天へと登る煙を見届けた。
納骨もなにも、彼を偲ぶ余裕も無く、涙を堪えるのに精一杯だった。
彼にきちんとお別れを言えずにいる自分が、なんだかとても情けなく思えた。




葬儀が終わった頃にはすっかり日も傾いていた。
納骨箱を抱えて屋敷に帰る。
もう何の気力も湧かなかった。
彼との寝室で、小さな箱を抱いたまま呆ける。
義父も千寿郎も何も言わなかった。誰の声もしない屋敷で、何を想うわけでもなくただ時が過ぎるのを待つ。
愛した人。愛してくれた人。かけがえのない沢山の命を守り続けた人。こんな小さな箱に収まりきってしまうんだ。私の腕に収まりきってしまうのだ。
これからどう生きればいい。
何を支えに生きればいい。
1人じゃ生きられない。弱くてごめんなさい。

「ごめんなさい…」

小さな箱は何も言わない。
考えるのにも疲れてしまった。
彼と夜を共にした布団に、おもむろに身を投げれば、杏寿朗様の匂いが私を包む。
こんなのもう悲しいだけだ。
救いなんてない。
明日なんて永遠に来なければいい。
静かに目を閉じた。






パチパチとはぜる篝火を見ていた。
夜の静けさの満ちるなか、豪奢に組まれた大木には大炎が踊り、私たちの頬を照らしている。
右手は大きく逞しい手と緩やかに繋がれており、見ずとも隣にだれがいるのかわかった。安心する彼の匂いと、視界の端に見える白に炎模様の羽織り。じんわりと安堵感が胸に広がって、彼に少し身を寄せた。
もうずっとこうやって篝火を見ているような気がした。

「俺も、母上の腹にいた頃はこうして大篝火を見たのだな」

声がすぐ耳元で聴こえて、心臓がどくんと高鳴った。
聞き慣れた、大好きな声。任務や稽古の時の張りのある声とは違う、低く落ち着いた胸に沁みる声に、いつもわたしは彼からの愛情と信頼を感じていたのだった。

「…そうですね、あなたも、千寿朗も」 

ぎゅ、と手を握られる。
暖かい。
それだけで、嬉しくて胸が締め付けられるほど幸せで、この気持ちが伝わるようにと優しく握り返す。
ふ、と隣で微笑む息が耳を掠めた。

「苦労をかけるな」

「いいえ」

あなたのためなら。愛しくて、何より大切なあなたのためなら。
まるでその気持ちが聞こえているかのように彼は言葉を紡いだ。

「千寿朗はしっかり者だが、己の心を見失う時がある。……君なら、俺の心をわかっているだろうから、千寿朗が後悔のない道をゆけるよう言葉をかけてやってくれ」

「はい」

ひしりと暮れる夜の帳に身を委ねて。
静かに語られる言葉を胸に刻む。

「父上は…ああいうお方だ。君も逃げ出したくなる時もあるだろう」

俺もそうだったと困ったように笑う。
義父が柱をやめた日。あなたが柱になったあの日。杏寿朗様が耐えた悲しみを思い出す。
大丈夫ですよ、私が杏寿朗様の代わりにあの家を守ります。心配などかけたくなくて、優しく腕を抱き先を促した。

「……父上は魚の乾物を好まれるから、なんて、そんなことは君の方が知っているか」 

「はい、…存じております」

篝火を見つめながら、2人で静かに微笑み合う。なんて幸せな時間だろう、と思った。
隣に杏寿朗様がいる。
私に声をかけてくださる。
確かな体温がある。
重なる手のひらが堪らなく愛おしい。

「今はひねくれてはいるが、俺の尊敬する父上なんだ…身体を労ってやってくれ。それと、千寿朗に心無い言葉を口にする時は諫めてやってはくれないか」 

「かしこまりました。」

満足そうに息をついて、杏寿朗様は私に身を預けた。
いつかもこんな時があったな。寒い夜だった。縁側で、2人で身を寄せ合って遥か遠い月を見たんだ。
彼の重さが無性に愛おしくて、甘えるように頬を寄せる。それに気づいた杏寿朗様の髪が頬に触れて、ふんわりと彼の匂いに包まれて、なんだかとても泣き出したい気分になった。

「君にはたくさん無理を強いてきた。今までも、…そしてこれからも。俺はもうすぐいかねばならない。
………だから、君の気持ちを聞かせてはくれまいか」

彼の言葉が静かに夜に溶けて、消えた。篝火がパチパチと静寂をやぶる。
胸に渦巻く幾多の想いは、ずっと押し殺していたせいか、言葉にならなかった。
風が吹いて、ごうっと炎が勢いを増す。

「…私は、なにも」

結局、口に出た言葉はそれだけだった。

「何もないなどということはないだろう。」

彼の声は、私の心の内をすべて知っているかのように優しい。

「俺が死闘のなか考えたことは、君のことばかりだった。もう一度会うことも、触れることもできずに。そうして君を残して世を去ることが、どれだけ俺の心を縛ったか。」

最後の瞬間まで私を想ってくれた。それだけで、こんなに嬉しいのに。
繋がれた手に視線を落としたまま、じっと彼の声に耳を傾ける。

「頼む…恨み言でも、なんでもいい。
聞かせてくれ」

静かに響く彼の声が、痛いほど胸を締め付ける。 
あぁ。
あぁ。
あぁ。
柱としてその命を全うした杏寿朗様の最期を思えば、その妻として弱音なんて吐きたくなかった。
けれど、そんなもの全て放り捨てて、置いていかないでと幼子のように縋り泣きつきたかった。
自分の気持ちなんて上手く纏まらないまま、勝手に口が動いていた。

「どうして、命など懸けてしまったのですか」 

小さな声だった。篝火の音に消えそうなほど。杏寿朗様は口をつぐみ、握る手に僅かに力を込めた。

「あなたが、私にとって何より大切だとわかっていながら、どうして…」

重い心から、砂時計の砂のように言葉が零れ落ちていく。
悲しみが、また胸を浸していく。
今は、隣にあなたがいるのに。
夢のように温かくて幸せなのに。
それなのに、杏寿朗様の死に確かに引き裂かれた心が、痛いと叫ぶ。
一度言葉にしてしまえば、止めることなど出来なかった。

「200人の命、それを守ったこと、誇りです、杏寿朗様にしか出来なかったことです。あなたの最期を…笑顔で逝かれたと聞いて、やり遂げたのだと、責務を果たしたのだと胸が震えました。
ですが、誇りと思いながら…あなたに生きて帰ってきて欲しかったと思ってしまうのです」 

繋がれた手に、ぎゅっと力が込められた。
私の言葉を諫めているのか、それとも。

「私にとっては200人の命より、杏寿朗様に、生きていて欲しかった!たとえ鬼に背を向けようと、生きて……生きて、私のもとに帰ってきて欲しかった…!!」

胸のつかえがどろりと溶け出し、熱く喉を焼く。
彼の指が私の頬を拭った。
いつのまにか、耐えきれず涙が頬を伝っていた。
じ、と彼が私を見つめてくれているのがわかる。
溢れる涙を湛えたまま、彼を見た。
金色に光る大きな目に凛々しい眉、鮮やかに燃ゆる髪、少し尖った整った唇。
何度も何度も探し求めた彼がそこにいた。
もう二度と見ることなど叶わない、愛しい瞳と視線を絡ませれば、熱い嗚咽が喉をせぐりあげる。涙が溢れて彼の手を濡らした。
切なげに眉根を寄せる彼。震える手を、頬に添えられた大きな手に重ねた。

「私はこれからどう生きればいいのですか」

涙に呑まれた声を絞り出す。
彼の瞳が揺れた。 

「あなたとの毎日が、まだずっと続くと思ってた…柱の妻として覚悟はしていたのに、杏寿朗様とこれからもずっと一緒に生きていけると、信じて疑わなかったのです。」

彼の手に、縋るように頬を押し付ける。
かさつき硬く、けれど大きく暖かい手のひらに頬を包まれれば、悲しみに耐えるだけだった苦しい時間が思い出されてひりひりと胸を焼いた。

「弱いんです、私…強くなんてない。まだこんなにも熱くて痛いの、抱えて生きていけません。
千寿郎もいるのに、強くならなきゃいけないのに、毎日の些細な事で、あなたを思い出して泣いてしまう。
この夢から醒めたら、あなたはもういないのでしょう、嫌だ、嫌です、生きていたくない、お願いです……このまま私も連れて」

彼の顔がそっと近づき唇が塞がれて、続く言葉が口から出ることはなかった。
杏寿朗様が、優しい口づけを落としたのだった。
目の前にある彼の顔。
酷い人。優しい人。最後まで言わせてくれないなんて。彼の優しさと悲しみが胸に渦巻いてごちゃ混ぜになり、熱い雫となって溢れ出る。
滲む視界に瞼を閉じれば、柔く温かい唇の感触が悲しみを丸ごと包み込んでくれるようだった。
もう二度と、これ以上の幸せなんて訪れない。
杏寿朗様のいない世界は耐えられないの。
この幸福のなかで消えてしまいたい。愛する人に包まれて、全てを終わりにしたい。
目を閉じたまま、彼の腰へと手を伸ばす。
震える手が剣の柄に触れようかという瞬間、力強く腕を掴まれた。

「だめだ」

低く掠れた声に瞼を開ける。
睫毛が触れるほどに近い金色の瞳が、痛みを湛えて私を諌めていた。

「……どうしてっ…」

開いた唇を、乱暴に閉ざされる。
掴まれた腕を無理やり振り解こうと身をもだせば、そのまま抱き締められる。宥めるように何度も優しく口付けを落とされ、角度を変えて、深く深く繋がるようにと愛撫は続く。
すっぽりと私を抱きすくめてしまう逞しい腕、広く大きな背中、唇から伝わる彼の体温。もう二度と触れることなどできない。
これが、最後。
嫌だ、最後なんていやだ。
置いていかないで、お願い。
側にいて、杏寿郎様。
どうにもならない気持ちで、彼の胸を叩いた。
分厚い胸に受け止められる私の拳はとても弱々しく思えた。
ぎゅう、とさらに抱き締められる。
彼の悲しみと、優しさ。
私の悲しみと、もうどこにも行き場の無い愛。
これが、あなたとの最後の口づけ。
深く受け入れるように目を閉じる。
今まで何度も交わしたそれに、杏寿朗様との思い出がいくつも浮かび上がって、涙の雫となって頬を濡らしていく。
篝火の暖かさが私たちを照らして、触れ合った唇から溶けて1つになったかのようだった。 

静かに、ゆっくりと彼は唇を離した。
吐息がかかるほどの距離。
痛ましげに私を見つめる杏寿朗様。
離れがたい、とでも言うように、額に優しく、優しく口づけが落とされた。
苦しみを堪えた顔で、私の頬を親指でなぞる。

「頼む…生きていきたくないなどと、言わないでくれ。腹の子に障ってしまう。」 

悲しみと愛しさに満ちた瞳が私を見つめる。

「お腹の子…?」

自然と手がお腹に触れた。
その様子を見て、杏寿朗様は幸せそうに微笑む。

「……君に、俺の全てを託そう。培ってきた強さも、折れぬ心も、全て。」

濡れた頬にかかる髪を私の耳にかけながら、彼はそう言った。

「弱くてもいい。
どんな君も心から愛おしい。今までも、これからも、ずっとだ。
俺を思い出して泣いてしまうなら…俺の強さも思い出してくれ。」

囁やかれる声、優しく注がれる瞳。
息を殺して耳を傾ける。
もう二度と聞くことのない声を鼓膜に焼き付けるように、一言も記憶からこぼれ落ちぬように。

「君は俺が妻と見初めた人だ。死ぬまで愛し抜こうと決めた人だ。
だから、俺の全てを君に託す。
どんなに悲しみに暮れようと、君の心の炎が絶えることは決してない。いつかきっと前を向けるよう燃え続けよう。照らしつづけよう。
忘れないでくれ。
君のなかに、俺はいる」

彼の言葉が、悲しみでボロボロの心に沁み渡っていく。
悲しみも不安も絶望も、杏寿朗様が一緒に受け止めてくれたような気がした。

「………はい」

安心したように微笑む彼。

「いい子だ。おいで」

広げられた腕に飛び込んだ。
優しく抱きしめられ、頭を撫でられて、まるで幼子のように彼にしがみついて泣いた。

「大丈夫だ。俺がずっと、君のそばにいる」

「はい」 

「君と夫婦になれて、よかった。君が俺の妻になってくれて幸せだった。ありがとう」

「…っ私の方こそ、貴方の妻になれて幸せでした。」

「うむ」

「弱い姿を見せて、ごめんなさい」

「うむ」

「もう、大丈夫です。
杏寿朗様の姿を、ずっと一番近くで見させてくれたから…
ありがとう。
ずっと、ずっと守ってくれて、愛してくれて。」

「……いかんな、離れがたくなってしまう」

ぎゅう、と力を込められる腕。
それなのに、彼がだんだんと遠ざかっていくように感じる。
温もりを確かめるように抱きしめ返した。
少しだけ。もう少しだけ。杏寿朗様がいってしまうまで。

「           」







目が覚めた。
頬をさわれば、幾筋もの雫が流れ落ちていく。
夢か、幻か。
いや、確かに杏寿郎様が会いにきてくれた。

「……義姉上。」

障子を静かに滑らせて、千寿郎が顔を覗かせた。
泣き腫らした目をしている。
そっか、昨日までは私と寝ていたから。
1人の夜に泣いてしまったのね。
朝日を浴びた千寿郎に、彼を重ねることはもうしない。

「おいで。」

広げた腕に、千寿郎が飛び込んだ。
私の頬をくすぐる髪。
よく似ている。本当に。
私と同じ、彼への愛情に涙を流す義弟が愛おしい。

「千寿郎。昨日はごめんね。
私、あの人の妻であることが誇りだったのに、情けない姿を見せちゃったね。」

優しく頭を撫でる。

「いっぱい、いっぱい悲しんで、涙が止まったら。あの人が残してくれたものを大切にして、生きていきましょう。」

「義姉上……」

千寿郎が目を擦り、私を見上げた。

「僕も、兄上の弟でいることが誇りだったから……もう泣きません。」

そう言って笑う千寿郎。
私も思わず笑みが溢れた。
胸の奥が暖かい。
あぁ、確かに杏寿郎様はここにいる。
開け放たれた障子からは、眩しい朝日が差し込んでいた。



 


炎柱・煉獄杏寿郎の鍔を受け取った炭次郎は、少し心持ちが重かった。
鍔を頂けるなんて、こんな光栄なことはない。
だけど、俺よりも年下の千寿郎君や、お腹の大きな煉獄さんの奥さんのほうが、よっぽど煉獄さんの忘れ形見が必要ではないかと気に病んでしまうのだった。
それでも、2人からは暖かな匂いがした。

「炭次郎さん、またきてくださいね!」

「お待ちしています。あの人の話を聞かせてくれて、本当にありがとう。」

2人に見送られ、秋晴れの空の下一歩踏み出す炭次郎。
清々しい秋の風が背中を押した。
ふわり。
嗅いだことのある匂いが鼻先を掠めた。

「煉獄さん…?」

思わず足が止まる。
振り返った視界が、眩しい陽光に照らされた。 

ちらつく視界。
煉獄さんの奥さんの藍色の着物の横に、見覚えのある白い羽織がはためいた。
日を照り返し燃え盛るような金色の髪。

思わず瞬きをした時には、視界も陽の光に慣れ、一瞬の白昼夢は消えていた。

(見間違い…じゃない。
……これからは、愛した人たちを守っていくんですね、煉獄さん。)

まだ消えない煉獄さんの匂い。
懐にしまった鍔を、服の上から存在を確かめるように押さえる。
歩き始めた炭次郎の背中を押すように、一陣の風が吹いた。


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