「たーいまー」
「あ、おかえりー」
時刻は23時。仕事を終えた彼が気だるげに帰ってきた。
「おお、いいなそれ」
「ん?」
「おかえりーってやつ。なんかいい」
「なに今更。疲労で頭おかしくなった?」
「んーん、新婚さんって感じが」
「ああ、そういうこと」
靴を脱いでそのまま、わたしに覆い被さるように抱き付いてくる。彼の仕事は警察官。今は刑事部に居るけれど、元は機動隊の爆発物処理班のエース。華々しい経歴を持つ、いわゆる警視庁の有望株だ。口はあまり良くないけど、顔はすこぶるいい。そんなわたしの旦那様は、家に帰ればこんな感じ。抱きついて、すんすん私の髪の匂いを嗅いでいる。笑える。
「ほら、上着脱いで。お腹空いてる?お風呂先入るる?」
「…もう一声」
「もうないけど」
「違うだろ、そこはほら、それともわたしにする?だろ」
「…私が言うと思う?」
「聞きたいなあ名前ちゃーん」
「だーめーはやくこれ脱いでー」
ぶーと唇を尖らした陣平が不承不承離れて、ジャケットを脱ぐ。
受け取ってハンガーに掛けて居る間に陣平が食卓の上の夕ご飯のおかずを手でつまむ。
「あー、うま」
「でしょー先食べちゃおうか」
「ん、お前風呂まだなの?」
「うん、今日私も遅かったから」
「…そうか、よしよし」
「何その変な顔」
「あ?」
ほら、それだよそれ。あ?って返事するのやめなさい。
笑いながら2人で食卓に着く。いただきますの声が揃う。いつも通りの日常だけど、なにより幸せな瞬間だ。
「うん、やっぱり旨い」
「でしょでしょ」
普段はわりとぶっきらぼうな旦那様ではあるが、わたしの作ったご飯は必ずうまいうまいと食べてくれる。
そういうところが本当に好きだ。なんて言ったら安上がりな女でラッキーだったとか可愛くないことを言われたけれど。
2人で話しながらご飯を食べて、食器を洗い始めると背後に陣平が立つ。
「ん、どしたの?お風呂沸いてるよ?」
「おう」
「入ってきたら」
「おう」
返事はきちんとしているけれど、後ろの彼は動かない。それどころか、大きな手のひらを皿洗い中のわたしの腹に回してくる。
「なーにじんぺーちゃん」
「んー」
「動きにくいんですけど」
「気にすんな」
「いやいや気になるなあ」
「んー」
お腹を抱いて、わたしの首筋に顔を埋める。髪を結っていたから、肌に直接陣平の髪と顔が当たってくすぐったい。
「名前」
「ん?」
「一緒に入ろうぜ」
「えーお風呂?」
「おう」
耳のすぐ近くで聞こえる陣平の声。
それは子どもが自分のわがままが通るか不安そうに尋ねるような、そんな声色で。
「……お風呂ではしないよ?」
「ん?おう任せとけ」
「本当かなあ」
「おう」
数々のお風呂場での前科を持つ私の旦那様の声は今度は急に明るい。
でもそんな彼が結局愛おしくて、私は機能しない表情筋を引き締めることも忘れてへらへらしてしまうのだった。
結局お皿を洗い終わるまで陣平は背中にくっ付いていたし、お風呂は一緒に入ったし、手は出されなかった。概ねだけど。
お風呂から上がって、一緒に歯を磨いて、眠そうな顔でリビングに置いてある煙草を手に取る陣平に笑ってしまう。
私はそれを彼から奪い取る。
「あ、おい」
「せっかく歯磨いたのに煙草吸うの」
「それが旨いの」
「いけません。また煙草臭くなるよ」
「お前は母ちゃんか」
「陣平言うこと聞きなさい」
どこの母ちゃんだそれは、と陣平が笑う。
煙草の煙なんて嫌いだったけど、煙草の香りの陣平は好きだ。まったく理不尽だなと笑ってしまう。
「じゃあ我慢するからさ、」
「ん?」
「口塞いでよ」
「んんん?」
さっきまであんなに眠そうだったのに。
陣平の目がきらりと光る。
「手で?」
「嫌だ」
「枕で」
「殺す気か」
「ふふふ」
陣平の手が私の背を軽く押して、ベッドまで一緒に歩いて行く。
「これで」
まだ電気を点ける前のベッドルーム。リビングの電気は点けっぱなしだから、ぼんやりと明るい。そこに入った途端、陣平が私の前に立って人差し指を私の唇に押し付けたから。
「んっ、……仕方ない」
「ふ、ほら早く」
背の高い旦那様の唇に、背伸びして自分のを寄せた。
「…っ、そう、大正解」
「ちょ、わ、」
にんまり、口角を上げた陣平が、不意にわたしを担ぎ上げる。そう、担ぎ上げたのだ。抱き上げたのでなく。米俵みたいに。おい。
「あー、もう無理」
「わ、」
そのまますぐそこのベッドに転がされて。
「俺の奥さん可愛すぎない?」
「…褒めても何も出ませんよ?」
「いいよ、これからたっぷりもらうから」
「は、ちょっと、じん、」
押し倒された状態の視界はぜんぶ陣平だ。
妖艶に微笑む彼から目を離せずにいる間に、それはそれは熱いキスが降ってきた。
So far, so good.
(それはもう、大変順調ですとも)
「…陣平さん、」
「ん?」
「も、無理です」
「んー?」
「…っ、待って、ほんと…っ」
「聞こえない」
「も、無理だって、ば、」
「名前、」
「……っ、あ」
「名前、呼んで」
「……っ、じん、ぺい、っ」
「もっと」
「あ、待っ…!」
20190721