昔好きだった人は愛煙家で、いつも煙草を燻らせているひとだった。
そのせいでわたしも愛煙家に育ち、ここ2年ほどは電子タバコに切り替えていた。灰は落ちないし匂いもつきにくいし、水蒸気らしいが白煙を吐く行為は何度でも彼を思い起こすから好きだった。

日本に帰って来たのは3年前。仕事の関係だった。そのすこし前に彼と別れて、それ以来会ったことはおろか連絡の一つも取っていない。消せずにいる電話番号は、お掛けになった番号は現在ーというアナウンスを聞くのが怖くて結局一度も掛けられない。
元気にしているだろうか。切れ長のグリーンの瞳に見つめられると、息が苦しくなるほど愛おしかった、FBI捜査官の彼は。





「苗字さん、お疲れ様でした」
「ああ、どうも。お疲れ様です」


公安警察の喫煙所。狭いがクリーンで明るく居心地は良い。ここ公安警察はわたしの今の出向先だ。
プログラミングを始めとする技術を是非利用したいと申し出があり、1年とすこしここに通っている。


「苗字さん、今日はこの後ご予定は?」
「ふふ、いつも通り直帰ですよ」
「あの、もし良かったら飲みに行きませんか?」
「え?」
「あ、焼き鳥お好きだって聞いて。俺、美味しいとこ知ってるんで良かったらご紹介したいなと…」


彼は公安警察に勤める警察官。階級はややこしくて忘れてしまったが、自身も若いのに部下を持つエリートだ。
彼とは先日の事件で同じ部屋で何日も仕事をし、わたしは悪質なクラッカーを締め上げて事件解決に貢献してから、こうして喫煙所や庁内で会うと言葉を交わす仲だった。

こんな風に食事に誘われるのは、彼からは初めてだった。大勢で飲みに行ったことは、2、3回あったはずだけど。


「焼き鳥、いいですね」
「っ!じゃあ、是非、」
「デスクを片付けたら、何処で待ち合わせましょうか?」
「俺はもう片付いてるので、ロビーでお待ちしてます」


尻尾がついていたらぶんぶん振り回しそうな、笑顔。彼がただ私と焼き鳥を食べるだけで喜んでいるのではないことくらい、その後に何か期待していることくらい、大人になれば分かってしまう。
それでもお付き合いはお付き合い。もしかしたら、本当に純粋に友人になれるかもしれないし。デスクを整頓しながら、子供染みた言い訳を勝手に頭に並べる自分に苦笑した。言い訳する相手なんて、いないのに。












「乾杯、」
「お疲れ様です」


彼が連れて行ってくれたのは、一見飲み屋とは分かりづらい、路地の奥にある小さな店だった。隠れ家的とでも言うんだったか。
店内は黒と深いブルーのインテリアで統一され、照明も落としてあってムーディーだ。それなのに出てくるのはきちんと焼き鳥で、ちぐはぐな感じがして新鮮だった。


「苗字さんて、アメリカに住んだらしたんですよね?」
「ええ、子供の頃親の仕事の都合で」
「じゃあ、アメリカ暮らしの方が長い?」
「そうね、青春時代ってやつはアメリカでしたから」
「恋人もいたでしょう?」
「まあ…そんな事もあったかも」
「ちなみに、今は、?」
「恋人は…」


いないけど、と口に出しながら、やっぱり脳裏を掠めるグリーンの瞳。
別れてしまったけれど、彼はずっと心の中に棲んでいる。

恋人はいないと聞いて、目の前の彼が一度唾を飲む。ああ、あまり思わせぶりな態度はよくないな、と僅かにアルコールが回った頭が考える。


「いい女の子がいたら、紹介してくださる?」
「………え」


電子タバコの水蒸気を吐き出して、口角を上げる。
ぽかんとした彼には悪いけど、私にそんなつもりがないことを直ぐに分かってもらうには充分なブラフ。



結局その後恋人云々の話は立ち消えて、眉を下げて別れの挨拶をする彼と駅前で別れた。
お腹は膨れたし、アルコールも回ってる。だけどやけに胸が淋しいのは、いつもより彼のことを思い出したせい。

終電までまだ時間がある。このまま真っ直ぐ帰っても、彼のことは頭から離れそうにない。
致し方ない。駅を通り過ぎて、裏通りへ入る。最初に目に入ったバーのドアを押した。

店内の客はまばらだ。7席ほどあるカウンターにひとりも客がいないのを見留めて、奥の方へ腰掛けた。



「いらっしゃいませ」

若いバーテンだ。わたしより若いかもしれない彼は、さっき別れた彼にどことなく似ていてすこし笑えた。



「バーボンをロックで。銘柄はお任せするわ」
「かしこまりました」


コースターの上に綺麗なロックグラスがことんと乗る。口を付けると、氷がカランと音を立てた。芳醇な香りが鼻を抜けていき、深く息を吐く。

バッグから電子タバコとカートリッジの小箱を取り出すと、バーテンが小さな灰皿を音もなく差し出してカウンターの端へ移動して行った。どうやらまた客が来たらしい。
小箱の蓋を開けて、ぴたりと止まった。
中は空っぽだ。吸いきってしまったことを忘れていた。残念だけど、どうしようもない。帰りに買って帰ればいい。バッグに仕舞おうとした、その時。



「ウイスキーを飲むなら、電子タバコは合わないんじゃないか?」


忘れもしない、低く穏やかな声。



「……秀一?」
「俺ので良ければ、どうぞ」


となりのスツールに腰掛ける、長身痩躯の大男。
彼の長い指が、紙巻のたばこを取り出してわたしに差し出す。
ぽかんとしたままそれを受け取ると、流れるような動作でライターを差し出された。口にくわえると、彼が火をつけてくれた。


彼女と同じ物を、ダブルで。
秀一がバーテンの方を向いている。その横顔は、紛れもなくわたしが思い焦がれた男。美しく、残酷なまでに忘れられないかつての恋人。

久しぶりに吸い込んだ本物の煙が、肺を満たしてニコチンとタールを身体に染み渡らせる。



「どうして、ここに、」
「実は、何年か前から仕事でこちらに来ることがあってね」
「そう、仕事で…」
「君が日本に転勤したという噂は聞いていたが、こんな所で会えるとは思わなかった」


秀一も、たばこに火をつける。
たったさっきお役御免になった灰皿は急に大忙しだ。


「元気そうだな、名前」
「ええ、上手くいってるわ」
「今は何処で仕事を?」
「霞ヶ関。知ってるんでしょう?」


わたしの問いに応えるのは微笑みだけ。
この男のことだ、仕事つまり捜査のために来ている日本で、偶然出会った昔の恋人に声を掛けて隣で飲んだりするはずがない。
つまりはきちんとわたしの現状は下調べ済みなのだ。



「…あなたの仕事のお手伝いはしないわよ」
「分かってるさ。君はもう俺たちの所で働いているメンバーではないんだからな」


アメリカにいた頃、何度かFBIに協力したこともあった。
だから今公安に出向できている訳だが、掛け持ちはさすがに出来ない。



「じゃあ、今更どうしたの」
「どうしたもこうしたも、かつての恋人に偶然出会って声を掛けただけじゃないか」


つい口調が尖る。
本当は、目の前の男に心臓が口から出そうなほどドキドキしていることを知られたくない。
彼はあくまでもいつも通り、むしろ昔より柔らかく
微笑む。

煙草の灰を落とす。
香り高いバーボンに、電子タバコの薄っぺらい味は確かに合わない。昔はよくふたりで飲んだっけ。



「名前」
「…なあに」
「アメリカに帰る予定は?」
「今のところないわ」
「こちらに恋人でも?」
「…どうかしら」
「君がバイだったとは知らなかったな」
「…いたの?」


答える代わりに白煙をくゆらせる秀一。
さっきの焼き鳥屋での彼との会話を聞かれていた。じゃあいつから彼はわたしを見ていたんだろう。


「好きな人がいるのかな?」
「…まあ、そうね」
「そいつはアメリカ人?」
「…どうかしら」
「妬けるな」
「よく言うわ…」


彼のグラスがからんと氷と音を立てた。
嫌味なくらいセクシーだ。
3年半ほど会っていなかった間に、彼は昔よりずっと芳醇な色気を醸し出していた。熟成したウイスキーのように、わたしの頭をくらくらさせていく。


「あの日別れてから、」
「…」
「一度も忘れたことはなかったよ」
「…なに、」
「君のその、泣きそうな顔を」
「泣かないですけど」
「泣きそうだよ」

俺に会えて嬉しくてたまらないって顔をしてる。


その声はバーテンには聞こえない、わたしのためだけの小さな小さな声。

びくりと肩が震える。
ベッドで聞くような濡れたその声は、わざと甘く劣情に似た色を含ませていたから。



「本当だよ、名前」
「…やめてよ」
「別れた日に決めたんだ」
「なに、」
「もう一度君に会えたら、二度と離してやらないって」
「…ばかじゃない」
「馬鹿だよ。大馬鹿だ。君の手を一度でも手離したんだから」
「…秀一」


優しく細めるそのグリーンの瞳の奥に、強い光が宿って目が離せない。
細く白煙を上げ続ける煙草は、すっかり短くなってフィルターを焼きかけていた。






夢の終わり
(長かったプロローグ)




「さて、それで?」
「何?」
「尋問といこうじゃないか」
「嫌よ、尋問されるようなことしてない」
「じゃあ、拷問?」
「なんでそうなるのよ…」
「聞きたいんだ、俺がいなかったこの3年半の君のことすべて」
「…初めからそう言ってよ。て言うか特に何もない」
「ホォー?ではさっきの彼は?」
「同じ職場のひと」
「だいぶ凹んでたな、君のカミングアウトに」
「…いつから見てたの?」
「……さあ?」





20190627









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